旧日本銀行広島支店金庫室
旧日本銀行広島支店は2000年7月に広島市重要文化財に指定されて保存が正式決定となった。広島市は建物活用のアイデアを募集し、文学館など多くの案が寄せられたが、しばらくは建物全体を市民の芸術・文化活動発表の場とすることになり今に続いている。また私などは、秋葉市長の時代の折鶴の展示もかなり印象的だった。
2017年には2、3階を被爆前後の市民の暮らしや海外移民の歴史を紹介する博物館とする方針も固まった。今は人手不足で工事がストップしているけれど、オリンピック・パラリンピックが終わったらまた工事も再開するのではなかろうか。
旧日本銀行広島支店ではユニークな展示やイベントも何回か見ることができた。それはそれで意味のあることだったと思う。でも、いつももったいないなと思ってしまう。こうしたイベント会場なら、何も被爆建物でなくてもいいのだ。でも行政の立場としては、建物であれば使わなければいけないのだろうか。
現在、旧日本銀行広島支店には東側の通用口から入る。短い廊下の向うが旧日銀の事務室で、今のイベント主会場だ。この入口や廊下があの日どんな様子だったか、とても想像できるものではない。
南通用門入口には重傷を負つた幾多の職員と全身焼き爛れて苦しむ見知らぬ女車掌や乳呑子を懐いている可憐の婦人等で足の踏み入ることも出来ない。窓より飛び込めば小使室と廊下には死体と沢山の重傷者が鮮血に染まり枕を並べて打ち倒れていた。(相原勝雄「原子爆弾体験記」広島原爆死没者追悼平和祈念館)
3階のフリースペース3はフリースペースというだけあって、当時の写真の展示など何もない。当時は、その日17人の職員がこれから仕事に取り掛かろうとしていた広島財務局直税部の部屋だった。
爆心地から380mという至近距離で6人が即死し、後日7人が亡くなられ、奇跡的に生き残られた方が4人(1985年当時)。生と死の境目はどこにあったのか。NHKはスタジオに直税室を再現した。壁や天井の構造、厚さ。爆心地からの距離、角度。閃光はどのように差し込んで来たか。爆風は。放射線の量は。そして一人一人の位置と行動。生き残った人の証言と当時最新の科学的データで明らかにした。(NHK広島局・原爆プロジェクト・チーム『ヒロシマ爆心地―生と死の40年―』日本放送出版協会1986)
地下の金庫室。この前行ったときは、移民県広島の写真や資料の展示があった。展示も興味深いが、日銀の金庫室に入れるなんて他にあるだろうか。そして金庫室の前は、あの日の夜原爆で傷ついた人が身体を横たえた場所だ。電気も消えて真っ暗な中、何を思って一晩を過ごしたのだろうか。翌朝には息を引きとる人も出た。
この建物は、あの日建物の中や外で何があったかを語ることの出来る建物だ。それが今はまだ口を閉ざしているけれど、いつでもこの建物はあの日のことを、そしてあの日からのことを語ってくれるはずだ。