街の記憶15~4つの名前を持つ建物7 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 レストハウスの解体か保存かが議論されたときの市長は平岡敬さんだ。中国新聞の記者だったころからヒロシマについて真剣に考え行動してきた平岡さんだったが、レストハウスについては、野村英三さん一人が奇跡的に助かった地下室についてこんな考えを持っていた。

 

 …私はこの地下室を見学できるように整備して、その場で野村さんの恐怖を追体験し、猛火につつまれた広島市街の状況を想起することができるようにしたいと思っている。(平岡敬『希望のヒロシマ』岩波新書1996)

 

 しかし地上部分については、増える観光客に対応するため建て替えるつもりだった。保存を求める市民団体との話し合いで次のように言ったという。

 

 使用目的に沿って改修したり建て替えたりするのが建物というもので、被爆しているから手を触れるなという考えでは目的と手段を取り違えている。税金を預かる行政としては合理性が必要だ。(朝日新聞広島支局『原爆ドーム』朝日文庫1998)

 

 確かに、市民の税金をいかに有効に使うかは市長の大切な役目だ。当時の広島市の財政は火の車、2002年FIFAワールドカップ開催地選定の時、広島ビッグアーチに屋根をつけるのを多額の費用がかかるからと拒否したのは有名な話だ。単にケチだったわけではなく、市長はお金の使い道として、後にマツダスタジアムがつくられる旧国鉄貨物ヤード跡地取得の方を選んだのだ。

 レストハウスにしても、ただ被爆建物というだけでは耐震化工事にかかる多額の費用負担を認めることにならなかったのだろう。

 しかし文化庁からストップがかかり、解体計画は凍結された。「原爆が投下された地域で唯一建ちつづけている構造物」とされた原爆ドームのおかげで同じ被爆建物であるレストハウスが解体を免れたとは皮肉な話である。

 世界遺産のバッファゾーンの持つ意味については次の指摘がある。

 

 すなわち、登録資産の周辺地帯あるいは緩衝地帯としての機能を超えて、資産本体ではないとしつつも、資産本体との連続性や一体性が期待され、さらには精神性の共有等が要請されるようになってきている。(日本イコモス国内委員会「日本の世界遺産の保護政策の充実のために~バッファゾーンをめぐって~(予備的提言)」2016)

 

 世界遺産の周りの看板を規制するといった施策にとどまらず、原爆ドームと精神的に一体化された地域をつくり維持していくことが求められているのだ。原爆ドーム一つあれば事足りるというわけではなかった。

 2015年の広島市によるレストハウス改修計画では、レストハウスの持つ歴史的価値について次のように指摘してある。

 

 …原爆ドームとともに爆心地に最も近い被爆建物であり、被爆の記憶をとどめているとともに、旧大正屋呉服店として被爆前の中島町の面影を残す唯一の建物である。(広島市「広島市平和記念公園レストハウス改修計画(検討素案)」2015)

 

 「被爆前の中島町の面影を残す唯一の建物」。この言葉は長い間大正屋呉服店建物の保存を訴えてきた故諏訪了我さんの言葉だ。この言葉がレストハウス全体の存在意義となった。

 こうして原爆ドームを含む平和公園一帯は、原爆の惨禍を示す原爆ドーム、原爆で消えてしまった昔の町の面影を伝えるレストハウス、そして戦後の広島の復興のシンボルである平和記念資料館、これらそれぞれがその存在意義を持つとともに、一体となって「世界平和とあらゆる核兵器廃絶」を訴えることになる。私たちはそう意識しなければいけないと思う。

 そしてその「一体性」「精神性の共有」は、広島全体に拡げていくべきものではなかろうかと思う。