被爆者の訴え38~核兵器禁止条約への道2 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 国際司法裁判所の勧告は、膨大な数の人の命、健康、そして環境の保全よりも、「国家存亡の危機」を主張する核保有国の立場をゆるがすものとはならなかった。

 しかし、国際社会においてはじめて、核兵器の威嚇と使用が国際法人道法の原則に反すると勧告されたことは無意味だったわけではない。世界の反核運動をしっかり後押ししたことは間違いないだろう。

 2009年にアメリカのオバマ大統領がチェコのプラハで「核兵器なき世界」への決意を示す演説を行った翌年、NPT(核拡散防止条約)再検討会議が開かれ、採択された最終文書に次の文言が盛り込まれた。

 

 会議は、いくつかの核兵器国による2国間もしくは一方的な核兵器削減の達成を歓迎しつつ、配備され、備蓄されている核兵器の総数が依然として推定数千発に上るという事実に懸念をもって留意する。会議は、これら兵器が使用される可能性と、使用がもたらすであろう壊滅的な人道的結果に対して深刻な懸念を表明する。(「2010年核不拡散条約再検討会議 最終文書」長崎大学核兵器廃絶研究センターホームページより)

 

 核保有国を含めた国際会議で、核兵器が「壊滅的な人道的結果」をもたらすことが問題だと指摘されたのだ。「国家存亡の危機なら核兵器を使ってもかまわない」でおしまいではないのだ。

 そしてもうひとつ。

 

会議は、核兵器のない世界の達成に関連して諸政府及び市民社会からなされている新しい提案及びイニシャティブに留意する。とりわけ、確固たる検証システムによって裏打ちされた、核兵器禁止条約もしくは相互に補強しあう別々の文書という枠組の合意を検討すべきであるとする国連事務総長の軍縮提案に留意する。(「2010年核不拡散条約再検討会議 最終文書」長崎大学核兵器廃絶研究センターホームページより)

 

ここに「核兵器禁止条約」という言葉が出てきた。

このような世界の動きの中で、2007年に反核平和を求める世界各地のグループが集まってできたICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)の活動が活発になっていった。サーロー節子さんがそのころのICANについて次のように述べている。

 

ならば、新たな条約で非人道兵器の禁止を―。ICANが急拡大を始めます。若者が各国の外交官と堂々と渡り合い、ロビー活動。会員制交流サイト(SNS)を通して、世界中で情報や戦略を瞬時に共有します。軍縮運動に人生を懸けてきたベテランも、豊富な経験を生かし、大いに貢献していました。私は、核兵器に頼る愚かさを懸命に訴えました。非人道性というアプローチと、被爆者たちの実体験。両輪が力強く回っていきました。(「中国新聞」2018.8.28)

 

ICANのメンバーで、世界各地で懸命に被爆体験を語るサーロー節子さんは広島の被爆者だ。自分の体験をもとに、次の言葉を世界各地で反核平和を求める人たちに贈っている。

 

私は13歳の時、くすぶるがれきの中に閉じ込められても、頑張り続けました。光に向かって進み続けました。そして生き残りました。いま私たちにとって、核禁止条約が光です。この会場にいる皆さんに、世界中で聞いている皆さんに、広島の倒壊した建物の中で耳にした呼び掛けの言葉を繰り返します。「諦めるな。頑張れ。光が見えるか。それに向かってはっていくんだ」(サーロー節子 ノーベル平和賞受賞式での演説より)

 

「諦めるな。頑張れ。光が見えるか。それに向かってはっていくんだ」。サーロー節子さんは被爆したあの日から現在まで、ずっと、光に向かって這ってきた。