被爆者の訴え10~軍事工場 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 広島赤十字病院の屋上に描かれた赤十字のマークは、原爆には全く意味がなかった。原爆の投下には、兵士と市民の区別も、軍事基地や軍事工場と市街地との区別も無視された。

 もっと言えば、現代の戦争における「無差別爆撃」とは、軍事目標よりも、むしろ多数の一般市民の殺傷を狙ったものである。

 1945年1月、日本本土の軍事基地の爆撃に失敗したヘイウッド・ハンセル将軍が「本土空襲」を担うB29部隊の司令官を解任され、かわってカーチス・ルメイ将軍が任命された。

 

 ハンセルにかわってマリワナ基地のB-29部隊の指揮官となったルメイ。軍需工場に命中させるのが難しいならば、都市全体を住民もろとも標的にすればいいという作戦へと転換。民家の中には小さな工場も入り交じっているという考えで、あくまで市民への無差別爆撃ではなく、重要産業や戦略目標への攻撃であるとした。(NHKスペシャル取材班『本土空襲全記録』KADOKAWA2018)

 

しかし「民家の中には小さな工場も入り交じっている」から空爆してもよいという理屈は、「ハーグ空戦規則案」に間違いなく違反している。「規則案」では「明らかに軍需品の製造に従事する工場であって重要で、公知の中枢を構成するもの」にかぎり空爆を認めているのだ。誰もが認める主要な軍事工場だけでなく家内工場まで爆撃を容認すれば、戦争の惨禍を出来るだけ軽減することをめざした「ハーグ空戦規則案」は完全に反故にされたと言えるだろう。

広島市に限っていえば、主要な軍事工場は最後まで爆撃の目標とされることはなかった。

広島市に隣接する府中町に本社のある自動車会社のマツダは、当時は東洋工業という社名で、戦時下の日本における小銃生産の主力工場だった。

中国新聞社の大佐古一郎さんが1945年6月に東洋工業のすぐ近くに引っ越した時、同僚からは「爆弾が落ちるぞ」とおどされたという(大佐古一郎『広島昭和二十年』中公新書)。しかし東洋工業の工場は爆弾の投下も機銃掃射もないままに8月6日を迎えた。

当時広島一中3年生だった角田光永さんは東洋工業の事務所内で原爆の閃光を見た。東洋工業は爆心地から約5km離れている。

 

引率の教官岸本渉・岡本清両先生をはじめ一同は、突然、ピカッと光ったので、どうしたのか?と総立ちになって、窓の方を見た。

その時、ド-ンという爆発音と同時に、ものすごい爆風がやって来た。 

私はとっさに机と机のあいだにしゃがみこんだ。東洋工業が爆撃にあったなと思った。

しかし、一発しか爆発しなかったので、ヘンだなァと思った。部屋の中は、ものすごい埃でうす暗くなっていた。

 (中略)事務所の窓ガラスは木っ端微塵に砕け、窓枠は内側へ曲り、書類は散乱し、机は埃におおわれていた。窓ぎわにいた人は、ガラスの破片で顔や腕を負傷している。負傷者はすぐ医務室に行き、治療を受け繃帯を巻いて帰って来た。

  事務所の中の負傷者は五人ほどであったが、工場にいた者も、屋根のスレ-トが落下して数人の負傷者が出た。(角田光永「動員学徒の被爆記」『広島原爆戦災誌』)

 

広島では三菱重工など他の主要な軍事工場も市の中心部から離れている。市内に建物疎開作業に出ていた人たちはほぼ全滅であったが、工場内にいた人はほとんど無事だった。

原爆は明らかに、市民の命を狙っていた。