広島市が1950年に集めた被爆体験記が現在『原爆体験記』(朝日選書)として出版されているが、その中に森脇昭幸さんの「ビンタのあとで」がある。『原爆体験記』には爆心地から2.5km離れた皆実町で被爆と付記してあるが、本文には「西部第九部隊電信隊」とあるので、中国軍管区司令部に所属する通信補充隊の一兵卒で、今の広島城本丸跡南側のテニスコートのあたりで被爆したとみるべきだろう。爆心地からの距離は660mである。
今日は野外演習である。全員完全武装をして営庭に出る準備に大童だ。班内は蜂の巣をつついたかの如き大騒動。この時またもや警戒警報発令される。兵隊も馴れてか一向おかまいなしで演習の準備に余念がない。つづいて空襲警報発令。頭上を物凄き爆音をたてる。班長の退避命令が出た。と同時に営舎の窓ガラスに「ピカリ」雷の如き閃光が目に入る。(森脇昭幸「ビンタのあとで」広島市原爆体験記刊行会『原爆体験記』朝日選書1975)
森脇さんは押しつぶされた兵舎の下敷きになって頭部に裂傷をおい、手はひどい火傷だった。軍服はボロボロになり、ほとんど裸の格好で臨時救護所に収容された。その後、1950年には体験記を書かれているのだが、朝日新聞社が1975年に出版するときには「消息不明」となっている。
森脇さんの被爆時の描写は具体的である。しかしそれで逆に首をかしげることにもなる。森脇さんは警戒警報に続いて空襲警報が発令されたと書かれているのだが、他の体験記では空襲警報の話など、どこにも出てこないのだ。
『しろうや!広島城』(広島市文化財団2015.9.30)で紹介されている、あと二つの証言。
『広島原爆戦災誌』第四巻安佐郡沼田町(被爆時は戸山村 『しろうや!広島城』で安佐町とあるのは間違い)の項では村内大塚の自宅で病床にあった市本秀子さんの体験が紹介してある。
朝から非常に暑く、部屋の障子を全部あけて、遠くをボンヤリ眺めていたところ、ちょうど、その時、警戒警報のサイレンが鳴り出した。ああ、また B29が来たなと、空を見ていると、向うの山の上の方に白い雲のようなものが、フワッと湧いた。
次の瞬間、大きな火炎がグワッと立った。(『広島原爆戦災誌』)
大塚は、今は広島市の郊外で、山一つ越えれば(今はトンネル)市の中心部になる。爆心地からは8kmくらい。市内からサイレンが聞こえてもおかしくはない(または村内で鳴らされたかもしれない)。そして当時の人は子どもでも警戒警報と空襲警報の違いはよくわかっていたはずだ。
また、『広島原爆戦災誌』によれば、爆心地から南東に9kmほど離れた矢野町でも、朝8時に警戒警報が発令されたという記述がある。
細かいことになると、記憶と記憶がけんかすることになってしまう。警報は鳴ったのか鳴らなかったのか。もう一度、広島城本丸跡の地下壕に戻ってみるしかない。