「破壊の日」より1~イエズス会長束修道院 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 広島市内で被爆した人々が救護を求めて歩いた道の一つに現在の県道古市広島線がある。その道は、当時は今の十日市から寺町の中を通り、横川橋を渡って横川駅を越え、さらに新庄橋を渡って、長束、祇園、緑井に向かった。そして道はさらに可部に続き、遠く浜田や松江にまでつながっていたのである。

 その途中の長束にカトリックの修道院があることを、朽木祥さんの原爆を描いた小説『八月の光』を読んで初めて知った。

 

 低い山が、市を流れる七つの川を屏風でかこむように連なっている。あの日、焼かれた人びとの群れがめざして逃げた山々だ。

 修道院は山の中腹にあった。

 大きな木の扉の向こうから、茶色い目をした司祭が出てきた。司祭は長身を折りまげるようにして僕の手をとり、自分はP神父だと名のった。(朽木祥『八月の光』偕成社2012)

 

 当時は正確には修練院と呼ばれ、スペイン人の院長ペドロ・アルペ神父をはじめとする10人余りの神父や修練士が信仰の生活を共にし、そして8月6日を迎えた。

 神父の一人ドイツ生まれのヨハンネス・ジーメス神父が「破壊の日」という手記を書いておられる。

 ジーメス神父は被爆した翌9月には東京の上智大学に戻り、その月のうちに「破壊の日」を書かれた。被爆してまだ間もない頃の生々しい記憶、一方、原爆についての正確な情報が十分伝わらないうちに占領軍によって遮断されてしまった当時の状況がよく伝わってくる。特に市内中心部の幟町で被爆したフーゴ・ラッサール神父らを救出に向かった時の記録は、8月6日の縮景園あたりと広島市の北の郊外の様子を私たちによく伝えてくれるのだ。

 

 その朝、私は長束にあるイエズス会の修練院の自室に居た。ちょうどその半年ほどまえに、イエズス会の東京在住の哲学部と神学部の人員は、皆この長束に避難してきたのである。修練院は、広島の市街から二キロメートルほど離れた、広い谷を見おろす山の中腹にある。この谷は、海をのぞむ広島の市街から山々の連なる後背地にむかって伸びており、谷の底にはひとすじの川が流れている。私の部屋の窓の下から東南の方向にひろがる谷間の景観は素晴らしく、さらにその向こうには広島市街の一端がのぞまれた。(J・ジーメス著 出崎澄男訳 月刊誌『聖心(みこころ)の使徒』1970掲載 ウェブサイト「哲野イサクの地方見聞録」に転載)

 

 外観は和風につくられた修練院は、爆心地からはほぼ真北4.5kmのところにあり、眼下には太田川が流れていた。