1945年5月5月11日の「点呼」を無事終えた正三はしばらくは虚無感に陥りがちだったが、世の中は「本土決戦」が叫ばれ、広島では「築城」という言葉が聞かれるようになった。
絶えず何かに追ひつめられてゆくやうな気持でゐながら、だらけてゆくものをどうにも出来ず、正三は自らを持てあますやうに、ぶらぶらと広い家のうちを歩き廻ることが多かつた。(原民喜「壊滅の序曲」)
4月30日の爆撃以降空襲のなかった広島では、ひとり正三だけでなく、街全体が「緊張と弛緩」に揺れていた。そんなある日、清二は、畑元帥が広島に来ているという情報を持ってきた。その日の夕刻は京浜地区にB29が500機来襲したというから、5月25日のことになるだろうか。
「畑元帥が広島に来てゐるぞ」と、ある日、清二は事務室で正三に云つた。「東練兵場に築城本部がある。広島が最後の牙城になるらしいぞ」さういふことを語る清二は――多少の懐疑も持ちながら――正三にくらべると、決戦の心組に気負つてゐる風にもみえた。(原民喜 同上)
戦況が厳しくなる中、軍部は「本土決戦」に備えて日本本土を二分割し、広島の二葉の里に第二総軍司令部を置いた。4月7日、司令官に任命されたのは陸軍元帥畑俊六で、昭和天皇の信任厚く陸軍大臣をつとめ、1945年には総理大臣に推薦されたほどの大物中の大物である。
しかし陸軍の中枢が広島に置かれるということは、たしかに広島が本土決戦の「最後の牙城」になるということだ。それなのに、原民喜によれば、市民がそのことを知ったのは1か月半も後のことだったということになる。
そして、広島の市民はまだ本気になれなかったのか。
夕刻、事務室のラジオは京浜地区にB29五百機来襲を報じてゐた。顰面して聴いていた三津井老人は、
「へーえ、五百機!……」
と思はず驚嘆の声をあげた。すると、皆はくすくす笑ひ出すのであつた。(原民喜 同上)
空襲に備えて、正三は非常持ち出し用のカバンを、清二からもらった布で、妹の康子につくってもらった。しかし、蜂谷道彦の『ヒロシマ日記』によると、もっと手際のよい人たちもいた。
焼けてからみれば兵営も、弾薬庫も空っぽだった。軍隊は用意周到だ。四月までに将校家族はほとんどすべて郊外の安全そうなところに疎開していたのだ。心当りがある。そして四月から疎開禁止。私はあの時疎開したかった。どうしてもそれが許されなかった。(蜂谷道彦『ヒロシマ日記』朝日新聞社1955)
防空要員確保のため市民の疎開は制限され、特に医師の疎開は絶対許されなかった。