正三は点呼を受けたのちも在郷軍人会の訓練に何度か引っ張り出されたが、それで終わった。とうとう兵隊にならずにすんだのだ。しかし世の中には正三(原民喜)と同じ中年ながら軍隊に召集された人たちも大勢いた。
2012年に100歳で亡くなる最後まで映画製作に情熱を燃やした新藤兼人は、1944年4月に海軍に召集された。徴兵検査は、現役兵には不適とされる丙種合格で、「国民兵」として召集されたときは30歳を過ぎていた。
新藤兼人ら100名の国民兵は、まず奈良に送られて予科練航空隊の雑役をさせられた。この任務が終ると次の配属先は上官がくじを引いて決めた。
間もなく私たちはクジをひいて――他人にひいてもらうクジで――六十名がマニラに向かって出発した。陸戦隊である。さらにクジをひいて三十名が潜水艦に乗った。残った十名は宝塚予科練航空隊の設営のため宝塚へ出発した。(新藤兼人『スクリーンの向こうに 新藤兼人の遺したもの』NHK出版2014)
戦友を乗せたフィリピンへの輸送船も潜水艦も、途中で海の藻屑となったという。新藤兼人は残った10名の中に入っていた。
命が助かったのは幸いだったが、それでも戦争が終るまで、若い上官からクズと罵倒され棍棒で殴られる日々は辛かった。
悔しさにみんな夜中ベッドで泣いた。抵抗出来ない者を殴る。毎晩殴る。みんなケツが紫色になっている。殴られた人間は、次第に獣みたいになってくる。人間性を失ってゆく。将校は見て見ぬふり。海軍の正体を見た気がした。(小野民樹『新藤兼人伝ー未完の日本映画史』白水社2011)
森製作所で働いている片山のところにも召集令状が来た。片山は今年初めて点呼を受けるはずだったが、いきなり兵隊に引っ張られたという。ということは、20歳で徴兵検査を受けて甲種合格、すぐに現役兵というコースではないから、あまり若くはないはずだ。
森製作所に長く勤めている三津井老人は大変賢い人だったが、その人が心配して片山に静かに近寄った。
「兵隊になられたら、馬鹿になりなさいよ、ものを考へてはいけませんよ」と、息子に云ひきかすやうに云ひだした。(原民喜「壊滅の序曲」)
多くの人は、馬鹿にならなければ生きていけない、いや、馬鹿になっても生きられるとは限らない、そんな世界になっていた。