8月6日正午ごろ、小倉豊文さんは比治山の山頂から広島市街(のあった場所)を一目見て立ちすくんでしまった。
ものすごい煙と焔――黒い平坦な焼跡の廃墟!(小倉豊文『絶後の記録』中公文庫)
それにしてもなぜこんなことになってしまったのか。小倉さんは原爆の閃光、そして「ものすごい巨きな雲の山、紅蓮の焔の大火柱」(いわゆる「キノコ雲」)を目の当たりにしているのだが、それが何によってもたらされたものなのか、さっぱりわからなかった。当時小倉さんは広島文理科大学の助教授で日本史を専攻している。ようするに文系である。
その小倉さんが比治山山頂で出会った陸軍の将校に「これは何事ですか」と問いただした。その将校はまだ若く、文理科大学の理科の卒業生だと言った。
彼は小声で言った。「実は僕――(といって大急ぎでいいなおして)自分は原子爆弾じゃないかと思うんですが……」
俺は自分の耳を疑った。(小倉豊文 同上)
やはり理系は強い?
当時呉の潜水艦司令部にいた岩本俊作さんは学徒出陣する前は東京物理学校の学生で原子物理もわずかながら勉強していた。8月6日は当直勤務で、閃光と爆風をあびたあと北北西に「ドーナツ型の太陽」が昇っているのを目撃した。
その夜理科系出陣学徒の血は沸き立った。距離がわかったので分角法で爆炎の直径と絶対温度を推定し、四乗してシュテフアンーボルツマン法則で熱量と爆発エネルギーを筆算で計算した。ニトログリセリンに換算して一万トン…(岩本俊作「原爆の絵」広島平和記念資料館)
そんな爆弾があるはずもない。岩本さんは、原爆だと直感した。
専門家でなくても科学的知識に興味を持っていれば原爆と閃く人も何人かいた。井門豊さんは8月6日朝、陸から100mほど離れた広島湾上で演習していた。あたりが真っ白になるような閃光をあび、爆風に突き飛ばされた井門さんたちだったが、起き上がって見てただ驚くしかなかった。目の前にとてつもなく巨大な火柱が出現していたのだ。
直ちに船を停め私の過去の実戦の経験から何が起ったかを瞬時考えてみた。火薬庫の誘爆と一瞬頭に上ったがそんな火薬庫があるはずもなく、たとえ誘爆でもこんな巨大な火柱が起こるエネルギーはない。数々の戦場で身近に魚雷、空爆の体験をしたがスケールがまるで違う。そのとき私の頭にとっさに「これは原子爆弾に違いない」と閃き大声で叫んだ。
偶然ではあるが、前日の8月5日、宇品にいた陸軍将校は広島文理科大学の理論物理学者三村剛昴教授から原爆についての講義を受けていた。井門さんもその中にいたと思われる。
三村教授は、構造式を黒板に書いて説明し、(中略)「要するにキャラメル一個大の原子核が爆発すれば、広島市くらいは一度に壊滅するものです。」、と説明した。(『広島原爆戦災誌第一巻』)
小倉さんも以前原爆について科学雑誌で読んだ記憶がよみがえってきた。
確かに原爆に違いない。そうであれば、
「これで戦争はおしまいになる」
小倉さんは直感した。