食の記憶1~中華そば | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 私が学生時代に食べたラーメンといえば中電前にあるサッポロラーメン「知床」である。高校生のころから食べていたような(いいかげんな)記憶だったが、食べログで見れば今年で44周年だそうで、そうなると大学生になってから開店したてのお店にお邪魔したことになる。太麺の味噌ラーメンにコーンとバターをのせれば、腹ペコの学生には至福の一杯であった。

 このラーメンに洗脳(洗舌)されたため、他のラーメンがどうも物足りなくなってしまった。私は当時富士見町のアパートに住んでいたのだが、当時は近くに「東海飯店」という中華料理屋さんがあり、店主は王貞治の親戚でジャイアンツの選手がよく来るという話だった。

 この店一番のおすすめは手打ち細麺のラーメンである。なぜかそのあたり一帯は、平和大通りの屋台も中央通りの「千番」も、麺は博多ラーメンのような細麺にあっさりした醤油味のスープだったように思う。(間違っていたらごめんなさい)。どうも物足りなく感じたのは若気の至りで、今思えばもったいないことであった。(ただ「東海飯店」さんではとびきりおいしい揚げ焼きそばや天津飯を食べさせてもらったので大感謝である)

 お好み焼きと同じ様に、広島のラーメンは戦後の屋台から出発している。すきっ腹を抱えた客が「ラーメン」と叫べば、すぐさま「ハイよっ」と出せるように細麺にしたのだろうかと想像してみる。

 1960年代、西新天地広場(今のアリスガーデン)はお好み焼きやホルモンの屋台でひしめいていた。私が学生をしていた70年代も市内のあちこちに屋台は残っていたが、今はどうなのだろう。市内のあちこちで、薄汚れていて、ゴチャゴチャして、そんな場所が一か所また一か所と装いを新たにしていったあの頃。街が新しくなるのが嬉しかったあの頃。大学で歴史を志していたのに、大きく移り変わる広島を見定める感性は、残念ながら、さらさらなかった。