消えた広島残った広島10~広島光道学校5 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 1945年9月5日付で広島光道学校から保護者宛に通知があった。子どもたちが疎開先から帰ってくるのである。

 迎えの人が村にやってきたのは9月12日の夜。仙徳寺ではもう引き取られた子どもたちも多く、残っていたのは半数の14、5人だった。13日は5か月間通った都谷国民学校でのお別れ会。そして14日に広島に帰る予定だったが風雨烈しく翌日に延期になった。

 14日の午後、子どもたちは川向こうの山の斜面を村の婦人会が切り開いて作った桃畑を見に行った。子どもたちはそこにサツマイモを植えていたのだ。せっかくなので掘ってみたけれど、まだ小さくて残念だった。

 その桃畑も、今は竹に覆われて消えてしまっている。でも、もっと大事なものが消えてしまっていた。

 15日、晴天。子どもたちはトラックに乗って広島に向かった。迎えに出向いた一人川崎幸一さんが書いておられる。

 

 子供達は目を見張っている。一昨日土橋から歩いた道なのに、我々の目にも車上で見渡すと広島の焼跡が遠く遠く見渡せて何もない。その中に光道学校がポツ然と建っている。側に何もない異様な形でした。誰も何にも言いません。(川崎幸一「学童疎開のこと」広島光道学校同窓会『広島光道学校の想い出』1990)

 

 そして光道学校からの通知にはもう一つ大変なことが書いてあった。

 

一、引取後児童の就学方は本校開校期も今のところ見通しつかず従って、一応他校に転学して御勉学なしおき下さい。(広島光道学校から保護者への通知文部分 広島光道学校同窓会『広島光道学校の想い出』)

 

 事実上の廃校である。子どもたちは離れ離れになっていった。

 それから40年の月日が流れ、1988年、広島光道学校の戦後最初の同窓会が開かれた。広島の焼け野原の中、原爆の爆風にも何とか持ちこたえて子どもたちを出迎えたかつての校舎も、前年解体されて、その姿を見ることはできなかったが、同窓会には当時の先生が5人出席されて思い出話に花を咲かすことが出来たのは光道学校同窓生の人たちにとって何よりもうれしかったことであろう。

 2002年には当時5年生だった方たちが57年ぶりに仙徳寺を訪ねてこられたが、その時からもう16年である。今は大きく育った記念植樹の夏ツバキを囲むことも今後あるかどうかわからない。

 それでも同窓会の皆さんは大切なものを残しておられる。『広島光道学校の想い出』を開けば、大正デモクラシーのころ広島でどんな教育がめざされたのか、田舎の山寺での疎開生活は一体どんなものだったのか、原爆に子どもたちはどのように傷ついたのか、手に取るように知ることができる。そして、今も子どもたちの声が聞こえてくるようだ。