8月7日の朝日が昇った。小川春藏さんの目に一面の焼け野原が映る。昨日のことは夢ではなかったのだ。勤務先から、疎開先からかけつけて、家族を捜し求める人たちの声が次第に大きくなってきた。
小川さんの家の隣には池田屋という靴屋さんがあった。8月6日当日は奥さんの弟川野孝爾さんが妻のキヌヱさんと三人の幼い子をよこしていた。小川さんは川野さんと一緒に子どもたちを探した。
子どもたちの亡骸は、焼け落ちた誓願寺の境内で見つかった。
やはり材木町に住んでいて舟入幸町の職場から焼跡に戻った三好茂さんが、自分の子どもを探す中で、川野さんの子どもたちの亡骸を見かけている。『原爆爆心地』で三好さんの描かれた絵地図をみることができる。絵地図にはこう書きこまれている。
小学校五年生位の娘さん背中に二・三才位の女の子を背負の前に五・六才の子を抱いて黒茶けてかちかちで死んでいた(志水清編『原爆爆心地』日本放送出版協会1969)
子どもたちが死んでいた場所を三好さんの絵地図で見ると、今の平和公園の噴水の東南のヘリのあたりだ。
三人の子どもは、長女が幸子さん(5歳)。二女のミユキさん(2歳)をかばうように、うつ伏せになって死んでいた。そして幸子さんに背負われたまま息絶えていたのが三女の邦子さん(11か月)だ。(中国新聞「ヒロシマの記録 遺影は語るー材木町」2000.4.28より)
川野さんはかけよりざま、灼け爛れたその子を抱きあげ、名を呼び、さめざめと泣きながら悪かった、悪かったと、もの言わぬ子らに、自分の罪を詫びていたという。(志水清編『原爆爆心地』)
子どもたちのお母さんのキヌヱさんは家の中で上半身が白骨化した遺体で見つかった。
小川さんが自宅の焼けあとから妻の逸枝さんの骨を掘り出したのは8日のことだった。まだスコップで掘るたびに火が吹き出していた。
涙と汗が白骨の上に音を立てゝ落ちて行く。一つ一つ拾ふ度に指先は、熱い。瀬戸物の食器に一杯拾い上げ弁当風呂敷に包む。今迄の緊張と昂奮が一時に足下から崩れ落ちる。(小川春藏「原爆体験記」1950広島原爆死没者追悼平和祈念館)
原爆供養塔そばの広場。平和記念資料館前の噴水のあたり。平和公園のあちらこちら…。今はただ人が行きかうだけの空間の、その土の下から、そこで息絶えた人の、そこで涙した人の、ひとりひとりの物語をもう一度掘り起こして、私は語ってみたいのだ。