燃料会館の建物は1929年に大正屋呉服店として新築された。鉄筋コンクリート造で地下一階地上三階の建物は当時としてはとてもモダンなものであった。
そして頑丈な造りだった。爆心地からわずか170mという至近距離であったが、陸屋根部分が押し下げられた程度で外郭は残り、修復されて現在もなお現役である。
とはいっても、中で働いていた人は野村英三さん以外全滅である。
原爆の閃光はまさに死の光線である。爆心直下で浴びれば全身焼け焦げて即死は免れない。しかし鉄筋コンクリートのビルの屋内であれば閃光はほぼ真上から降り注ぐことになるので、窓から少し離れていたら被害を受けなかった可能性がある。
ところが爆風は建物の中をどこもかしこも荒れ狂った。地下室にいた野村さん以外の36名に致命傷を与えたのではなかろうか。爆心直下での爆風の圧力は20~30t/㎡といわれる。想像力の範疇を越えている。
1998年8月6日に放映されたNHKスペシャル「原爆投下・10秒の衝撃」を制作する際、20tの衝撃波(爆風)の再現実験ができないか、NHKは東北大学衝撃波研究センターに相談した。答えは、圧力があまりに強すぎて装置そのものを破壊してしまう恐れがあるとのことだった。(NHK広島「核・平和」プロジェクト『原爆投下・10秒の衝撃』日本放送出版協会1999)
野村さんの体験記以外に、ごくわずか、燃料会館の被爆時の様子を語る資料がある。
広島原爆死没者追悼平和祈念館に14歳の時に被爆し、匿名で体験記を寄せている女性がいる。その方の19歳のお姉さんが燃料会館に勤めていた。
姉との再会後に聞いた話ですが、職場で席に座っているときに被爆し、そのとき、机の足が体にぐさっと突き刺さったそうです。その刺さった足を自分で引き抜いて、建物の近くを流れる元安川にみんなが水を求めて逃げたため、姉も一緒に逃げました。川に入るとみんな流され、次々と亡くなっていったそうです。(匿名「つらい想い出~姉との別れ~」広島原爆死没者追悼平和祈念館)
お姉さんは助けられて霞町の陸軍兵器補給廠で手当てを受けたが、8月11日に息を引きとった。爆心直下では、机の脚が凶器となったのである。