平和公園発掘7~慈仙寺の墓石5 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 慈仙寺の墓石の近くに1956年「平和乃観音」像が建立された。原爆で亡くなった中島本町住民の慰霊碑である。この像を紹介する平和記念資料館のホームページは中島本町の住民458人が命を奪われたと記している。

 中国新聞は亡くなった人の遺族を訪ね、1999年7月13日と8月3日の2回にわたり「ヒロシマの記録 遺影は語る 中島本町」と題して亡くなった人の遺影と被爆時の様子で紙面を埋めた。

 中島本町で亡くなった人のうち遺体、遺骨が見つかった人を数えてみた。計135人。思っていたよりも多い。

 8月6日の朝、向洋の東洋工業など遠方に働きに行っていた人が多いためではなかろうか。軍隊から帰って来た人も骨を拾っている。早い人は6日に、多くは7日から、いつまでも探し続けた。

 現在の原爆供養塔がある場所には武田寅夫さんの4人家族が暮らしていた。寅夫さんは坐ったような姿の遺体が見つかった。母親のキミ代さんは台所があった場所で手首だけが焼け残っていた。寅夫さんの姉の喜美子さんは遺体が見つかったのかどうか紙面からはよくわからない。甥の7歳の良樹君は階段あたりで小さな骨が見つかった。

 カチンカチンの木炭のようになった遺体。手で触れると崩れてしまう遺骨。焼跡に入った人は焼け残った着物の柄で、愛用の腕時計で、中には遺体の口をこじ開けて歯並びや金歯で、親しかった人の遺体、遺骨を探した。

 かなり後になって見つかった遺骨もある。粟根修蔵さんの遺骨は平和公園の造成工事中に崩れた土蔵跡から見つかった。冨田冨美子さんの遺骨は1971年、竹内タマエさんの遺骨は1984年に原爆供養塔に納められていることが分かった。

 即死を免れた人も何人かおられる。国広節子さんは本川橋東詰近くにあった日本簡易火災保険広島支店に勤めていた。

 

 出勤直後に被爆し、本川につかっているところを助けられ、平塚町(中区)の親類宅へ。母親に「お兄ちゃんにお嫁さんが来たら仲良くやってね」と言い残し、24日死去。(中国新聞「遺影は語る 中島本町」1999.7.13)

 

 そして遺体、遺骨を探し回る人の中からも死者が出た。

 橋本初太郎さんの遺骨は自宅跡で翌年見つかったが、孫で3歳の洋子さんは母親について一週間中島本町の焼跡を歩きまわり、8月21日に亡くなった。

 

 85歳になる母は「長女は高熱が出て、チョコレート色のような血の塊を吐いて死にました」。(中国新聞 同上)

 

 立野俊太郎さんの三男で11歳だった光三君は学校から帰る途中毎日中島本町に立ち寄り両親と兄弟二人の骨を探した。被爆から2年後に光三君は亡くなった。

 

 一緒に暮らしていたいとこは「『お父さんやお母さんが粗末になったらいけん』と通い続けました。自宅跡を掘り返すたびに毒を吸い、原爆症にかかったのだと思います」。(中国新聞「遺影は語る 中島本町Ⅱ」1999.8.3)

 

 放射能の「毒」など全く知らないまま、骨のひとかけらでもと、ガレキの町を歩きまわった多くの人達がいた。その人たちの呼び声も、今は聞こえることもない。