広島で被爆した人で最初に白血病と診断されたのは、1946年9月に熊本県で受診した27歳の元兵士だった。(広島市長崎市原爆災害誌編集委員会『原爆災害ーヒロシマ・ナガサキ』岩波書店1985)
1947年には、日本医療団広島県中央病院が実施した平和祭診断会で8月1日から7日までの間に7人の白血病患者が見つかった。(「中国新聞」ヒロシマ平和メディアセンターデータベース)
それから広島、長崎では白血病患者が急増して、1951~52年にピークを迎える。
しかし把握された患者数はあくまでも医師の診察を受けた人だ。また、他県では診察を受けても原因不明の死とみなされた人もあるだろう。
8月6日当日から次々と市内中心部に入り1週間にわたって救援活動を行った陸軍船舶練習部第十教育隊の富田稔大佐は次のように証言している。
復員後、私自身には異常はないが、所属下士官の一人が、悪性貧血で発病後、二か月位して死亡した。しかし、田舎の医者にかかっていたため、原子爆弾による障害とは認めてもらえなかった。(「被爆者救護活動の手記集」『広島原爆戦災誌』)
復員は9月であろうから、発病は早くて11月になる。急性放射線障害かもしれないが白血病だった可能性もある。
また、第十教育隊隊長の斉藤義雄少佐はこう証言している。
隊員のうち一名が、昭和三十五年頃血液病で死亡した。他にも出動者の中には、二次放射能の影響を受けて苦しんでいる人が、多数あるものと思われるが、連絡不能のため不明である。(同上)
当時袋町国民学校6年生だった川本省三さんは三次に学童疎開をしており、三日後に迎えに来た16歳の長姉から、父母、他の兄弟がみな原爆で亡くなったことを知らされた。
川本さんと長姉は、叔父夫婦の6畳一間のバラックに身を寄せた。息苦しくて、夜が明けると広島駅へ向かった。駅周辺にあふれる原爆孤児の子どもたちと過ごして時間をつぶすためだった。
鉄くずを拾ったり、やくざの言うままに靴磨きや汁物の屋台を切り盛りした。孤児たちは、生き延びようと1個の団子さえ取り合った。川本さんは配給の食料を手に入れては小さな子に与えた。しかし、そんな年端の行かない子や弱い子は、台風や寒さが襲うたび、橋の下や建物の陰で次々と死んでいった。遊び相手は日々変わった。
46年2月。駅から帰ると、長姉が亡くなっていた。白血病だった。すぐに川本さんは叔父の家を追い出された。(「朝日新聞」2008.9.4)
医者の治療が受けられたわけではなかろう。苦しみぬいた末の死であっても表に出ることはない。白血病に限らず、そんな死者が広島、長崎にどれぐらいいたのだろうか。