その日はいつか12~朝鮮人被爆者4 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 1952年4月28日サンフランシスコ平和条約が発効し、それによって朝鮮人は日本国籍を有しないものとされ、国籍の選択は認められなかった。そのころ朝鮮半島は戦争の真っ最中である。帰るに帰れなかった人たちは日本で何の援助も保障もない中、自分の力だけで生きていく他はなかった。

 一方故郷に帰ることのできた人にも幾多の困難が待ち構えていた。朝鮮戦争の戦火は3年で下火になっても、放射能の被害は海を越えて死ぬまで追いかけてきた。

 1965年6月日韓基本条約が締結され、日本と韓国の間で国交が結ばれた。その年の秋、当時中国新聞の記者だった平岡敬さんは韓国を訪れた。目的の一つは、戦後故郷に帰った韓国人被爆者を探し出すことだった。

 

 じつはその一年前に、私は韓国にいる被爆者から救いを求める手紙を受け取っていた。私は戦前、中学校時代をソウル(当時の京城)で過ごしている。それだけに韓国への関心は人一倍強かった。それにもかかわらず、私は手紙をもらってから初めて、忘れられていた韓国の被爆者の存在に気づいた。(平岡敬『希望のヒロシマ』岩波新書1996)

 
 以来平岡さんは、日本社会から「忘れられていた」韓国人被爆者の支援運動に深く関わることとなる。
 峠三吉の同志だった山代巴が中心となって『この世界の片隅で』(岩波新書)を出版したのも1965年のことだった。原爆孤児、胎内被曝による小頭児、沖縄の被爆者、被差別部落の被爆者。まさにこの世界の片隅で生きてきた人たちの声を、その傍らに腰をおろしずっと耳を傾けた人たちが世に訴えた労作だった。そしてその中には朝鮮人被爆者の声も収められていた。
 そして1972年、真黒いカラスの群れの中に真っ白なチマチョゴリを描いた丸木位里・丸木俊による『原爆の図第14部ーからすー』が発表された。
 朝鮮人被爆者が自ら体験を語った『白いチョゴリの被爆者』が出版されるのは1979年である。
 
 峠三吉は詩「微笑」の中でこう書いている。
 

むせぶようにたちこめた膿のにおいのなかで

憎むこと 怒ることをも奪われはてた あなたの

にんげんにおくった 最後の微笑

 

そのしずかな微笑は

わたしの内部に切なく装填され

三年 五年 圧力を増し

再びおし返してきた戦争への力と

抵抗を失ってゆく人々にむかい

いま 爆発しそうだ

(峠三吉「微笑」部分『原爆詩集』)

 
 しかし峠三吉がすべてを背負えるものではない。
 また、当時まだ知らされていなかったこと、気づかなかったことも多いだろう。そして中には抜け落ちてしまったものもある。
 峠三吉の36年の一生は、あまりにも短すぎた。
 けれど、峠三吉が精魂込めて差し出したバトンは、山代巴だけでなく、丸木夫妻だけでなく、数多くの人たちが受け取って、次につないで、今に至っている。