その日はいつか11~朝鮮人被爆者3 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 1945年8月28日、帰国朝鮮人、引揚日本人のために、山口県の仙崎と釜山の間を興安丸、博多と釜山の間を徳寿丸が運行を始めた。当時日本政府は帰国を希望する朝鮮人の数を約91万人と推定している(深川宗俊『海に消えた朝鮮人徴用工ー鎮魂の海峡ー』明石書店1992)。広島からも多くの朝鮮人が続々と仙崎港を目指したに違いない。

 しかし港までの汽車賃に公的な援助はない(たぶん)。港では何日も待たされたというから食費もばかにならない。何といっても必要なのは金である。

 呉鳳寿(オ・ボンス)さんは爆心地からわずか1.2kmの広瀬北町で被爆した。奇跡的に一命をとりとめたものの、妻と子ども5人の呉さん一家は極貧の生活にあえいだ。

 

 家にある金ったら、わしがピカに遭うた時離しちゃいけん思ってこぶしに入れていた四〇円だけ、あとは何もありゃせん。そんな金もすぐになくなったよ。(中略)金があったら帰っとったじゃろう。金がなかったけぇ帰れんかったんよ。(呉鳳寿「地獄絵のなかの差別」広島県朝鮮人被爆者協議会『白いチョゴリの被爆者』労働旬報社1979)

 

 生活苦から一家そろって日本に渡ってきた鄭寿祚(ヂョン・スジョ)さんは日本で結婚し、被爆した時には1歳の赤ん坊がいた。夫は広島駅で被爆し大火傷を負って翌年亡くなった。それで1945年秋に鄭さんの両親や兄弟たちがヤミ船で日本を離れる時も寿祚さんは日本に残らざるを得なかった。両親・兄弟たちは横川駅近く、爆心地から1.7kmの場所で被爆した。

 

 ヤミ船では、帰る途中死ぬ人も多かったんですが、ええぐあいに無事で祖国へ着いて、ところが、帰ってから一年たたんうちに、父も母も死んでしまいました。そして、それから間なしに、上の妹も死んだそうです。みんな原爆症らしいです。何のために日本へ来て、苦労したのかわかりません。(鄭寿祚「四六年間“楽しいこと”は一つもないです 同上)

 
 人数が定かではない。当然、一人一人の名前をすべて読み上げることもできない。けれど確かに多くの朝鮮人が異郷の地で原爆に遭い死んでいった。生き延びた人たちも日々の生活に追われてすぐには声を上げることは出来なかった。
 なぜ、朝鮮人が日本に来なければならなかったのか、原爆に遭わなければならなかったのか。そのことに日本人がはっきりと目を向けるのは20年も30年も後のことだった。