その日はいつか7~ソ連参戦2 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 1972年に日中国交正常化が行われ、1978年には日中平和友好条約が締結されて、1980年代に入ると敗戦直後に中国に取り残された人たちが親に逢いたい、故郷に帰りたいと声を上げ始めた。テレビニュースの中でそれを聞いたアナウンサーが涙があふれて言葉にならなかったのを憶えている。

 1990年代に入ると、当時私のいた高校に、中国から帰ってきたいわゆる「中国残留孤児」の人たちの子どもが高校生として入学してきた。校内では勉強会が始まった。

 1995年にNHKで放送された「大地の子」の主人公は出身が長野県の設定だが、同じころ放送された別のドラマでは広島県出身者が主人公だった。中国東北部に多くの人を送り出した満蒙開拓団の中でも広島県の開拓団の人数は全国有数である。やはり猫の額のような田畑が背景にあるのだろうか。

 そして広島県の開拓団の特徴は太平洋戦争末期の食糧不足の対策として急遽送り込まれたところにある。すぐに実績を上げなければならない開拓団は、現地住民の耕地と住宅を安価に買収、いや、取り上げた。

 

 買収現場に居合わせたある開拓団員は「買収が宣告されると、その家の老女が土下座して泣きついた。子供が病気だから、せめて治るまでと哀願する。無視して一方的にことを運んでいた。現地人の立場に立てば、終戦直後のあの襲撃の気持も十分にわかる。」それが度重なる襲撃の中で生きてきた開拓団員の述懐であるところに重みがある。現地人にとっては、開拓団は“招かざる客”であり、“侵略者の手先”であったろう。(「中国新聞」1979.8.19)

 
 敗戦直後、開拓団は現地住民の襲撃、略奪にあった。開拓団を間違いなく守る筈だった関東軍はソ連との国境からはいち早く撤退していた。開拓団員の中には、絶望のあまり「集団自決」に追い込まれた人たちも出た。
 現地住民の略奪に対して、開拓団はやむなくソ連軍に救助を求めたが、ソ連軍兵士は逆に略奪に手を貸し、開拓団員はついに裸同然にされたという。そこから飢えと病気と寒さの中、絶望の逃避行が始まった。
 

 十月になると寒さも零下に下り始める。中国の人の家に救助を求めて依頼し住込みで働く者、子供を連れて流浪する者、開拓団の人数も急激に減っていった。中国人にこわれるまま子供を預けたりしたのもこの時期である。帰国した多くの人達の中には中国人に私は命を救われたと話す人も数多い。(『広島県満州開拓史』広島県民の中国東北地区開拓史編纂委員会1989)

 
 峠三吉はおそらく死ぬまで知らなかっただろうが、国境を越えてソ連軍が銃火を浴びせたのは日本軍だけではなく多くの民間人もいた。そしてその人たちも、戦争の中にあっては被害者であるだけでなく、また加害者でもあった。