1945年8月15日、日本敗戦の報を知って中国新聞大佐古一郎記者の母が言った。
なんでひと月ほど前にやめとかなんだかのう。もっと早うやめとったら、あのむごい大勢の人殺しはなかったし、孫の病気がぶり返すこともなかったろうに…(大佐古一郎『広島 昭和二十年』中公新書1975)
原民喜も小説『廃墟から』の中で言っている。
病院の玄関先には次兄がまだ呆然と待たされてゐた。私はその姿を見ると、
「惜しかつたね、戦争は終つたのに……」と声をかけた。もう少し早く戦争が終つてくれたら――この言葉は、その後みんなで繰返された。彼は末の息子を喪つていたし、ここへ疎開するつもりで準備してゐた荷物もすつかり焼かれてゐたのだつた。(原民喜『廃墟から』)
日本政府は6月からソ連に対して和平仲介の打診を始めていた。
7月26日にポツダム宣言が発表された。宣言は、日本政府がポツダム宣言に無条件で同意しない限り「迅速且完全ナル壊滅アルノミ」と述べていたが、日本政府は「黙殺」と返答し、まだソ連の仲介に期待をかけていた。
8月8日、ソ連から返答があった。それは日本政府の淡い期待とは正反対、ソ連の対日参戦の宣言だった。アメリカが原爆を炸裂させたからには、日本が降伏する前に、ソ連は一刻も早く参戦して戦果を勝ち取らなければならない。
君は知ってはいなかった、
ハーケンクロイツの旗が折れ
ベルリンに赤旗が早くもあがったため
三ヵ月後ときめられたソヴェートの参戦日が
歴史の空に大きくはためきかけたのを(峠三吉「その日はいつか」部分『原爆詩集』)
1945年2月のヤルタ会談では、ソ連はドイツ降伏後2、3か月以内に対日参戦するとの秘密協定が結ばれていた。ドイツの降伏は5月8日である。8月8日は、確かに3か月後だった。
日本国民には8月9日午後5時にラジオから大本営発表として伝えられた。
帰りてソ聯もわが国に宣戦を布告せるを知る。遂に僅かに残れる理想も夢も捨て遠からず我らも死する覚悟をする。
爆撃の惨苦の中に、灯も無き闇の中にソ聯との開戦を聞かねばならぬ我々である。(峠三吉「被爆日記」広島大学ひろしま平和コンソーシアム・広島文学資料保全の会)
峠三吉を含め当時の日本国民にとっては、全貌のまだ明らかでない広島・長崎の原爆よりも、ソ連参戦の方が日本の敗北を決定づけるものであったようである。