1945年10月16日、峠三吉は「被爆日記」に次のように書き記している。
憲法の改正、●●法の改正、特高警察等四千名の一斉休職、共産主義者らの放免、財閥の解体、等々、どの一つを取り上げても眼を疑ふやうな事実の連続也。あゝ果たして今夜は明けつゝあるのか、嘗て夜闇である事を知らなかった我らなのか。然してひらけゆく明るみは眞実永遠にして望むべく歓ぶべきものであるか?(峠三吉「被爆日記」広島大学ひろしま平和コンソーシアム・広島文学資料保全の会)
占領軍のもたらした自由、民主主義は本当に永遠に続くものなのか。その答えは1950年に明らかになった。
1949年10月に中華人民共和国が建国され、1950年6月には朝鮮戦争が勃発し、米ソの対立は頂点に達する。日本国内ではGHQが1950年6月から日本国内で1万人以上の共産党員とその支持者を公職や企業から追放するレッド=パージを指示し、当時の国家地方警察本部は全国の警察にデモ・集会の禁止を指令した。
1950年8月2日、6日の平和祭を主催する広島平和協会に占領軍から圧力がかかった。平和祭は中止。そして5日には広島市警本部がビラを配ってまわった。
広島市警察本部が5、6日に広島市平和広場で開かれる予定だった広島平和擁護委員会、広島青年祖国戦線準備会などの行事を禁止。「反占領軍的、反日的とみられる集会、集団行進、集団示威運動は禁止」。市民各位に訴えるとして「平和祭に名をかる不穏行動に乗るな。知らずして犯罪に問われるな」とのビラを配る 。(中国新聞ヒロシマ平和メディアセンターデータベース「ヒロシマの記録」)
当時広島の労働運動のリーダーの一人だった松江澄さんは中国新聞のインタビューに当時を振り返る。
それでも戦争や原爆に反対の声すら出せないのは耐えられなかった。(「中国新聞」1995.5.14)
8月6日当日、平和公園入口には縄が張られ警官が立っていた。口づたえに連絡が入った。福屋の前に集まれと。福屋前に集まった人の群れの中には峠三吉の姿もあった。