太田川三角州にある川内村(現 広島市安佐南区川内)は畑作地帯だ。畑は肥をやらなければ作物は育たない。原爆で夫を失った西本セツコさんの肩にのしかかったのが宇品や段原まで出かけての下肥取りだった。
野菜や何かを持って行かなければ肥はもらえない。しかし警察はそれを闇取引と見た。
二、三度警察につかまったことがある。一度は家の中まで調べられました。桶や缶がありゃ、たたいたり、二階まで上がって、わらの中を調べられたことがあります。(西本セツコ「番外の夫婦じゃったが」神田三亀男編『原爆に夫を奪われて』岩波新書1982)
権重判(クォン・ジュンパン)さんは原爆で体が動かなくなった夫と、それに5人の子どもを抱え、女手一つで家計を支えた。といってもドブロクをつくるか闇米の買い出しに行くか、いずれにしても危ない仕事をするしかなかった。
身体に米を入れた袋をまきつけ、オーバーをはおって運ぶのですが、一斗四升の米は小柄な女の身体には重すぎ、前へ歩こうと思っても進めないほどでした。駅で張り込み、監視をしていた警察官に見つかってしまいました。三次警察署の留置場で、一晩留置されました。私が捕まってしまっては、一家は暮らしてゆけません。情なくて、情なくて、一晩まんじりともできませんでした。(権重判「雨が降っても学校に傘もってくるな」広島県朝鮮人被爆者協議会『白いチョゴリの被爆者』労働旬報社1979)
峠三吉の詩「巷にて」は、そんな人たちに声をあげてもらいたいために街角に張り出された(「辻詩」)。
「巷にて」
おお そのもの
遠ざかる駅の巡査を
車窓に罵りあうブローカー女たちの怒り
くらがりにかたまって
ことさらに嬌声をあげるしろい女らの笑い
傷口をおさえもせず血をしたたらせ
よろめいていった酔っぱらいのかなしみ
それらの奥に
それらのおくに
ひとつき刺したら
どっと噴き出そうなそのもの!
街角でこそ目に焼き付き、耳の底に響き、心に染みつく。今だったら、これはプロテストソングだ。
もし峠三吉が長生きをしていたなら、1963年は46歳。「風に吹かれて」に耳をそばだてただろうか。あるいは、1971年なら54歳。「イマジン」を口ずさんだだろうか。