ヒロシマの8月15日~峠三吉の場合1 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 峠三吉が被爆したのは28歳のときだった。18歳で発熱、喀血して肺結核と診断され(後に気管支拡張症と判明)、以後病床で詩を書き、短歌や俳句を詠み、被爆前日には油絵を描いていた。戦局が日々厳しさを増していく中、心の中は穏やかではない。

 

七月三十一日曇

今井の姉へ投函。

読書、假睡など、此の処少々わが人生目標を見失ひたるが如し、体力欲し、体力あらば畑でも耕せむものを。

(峠三吉「被爆日記」広島大学ひろしま平和コンソーシアム・広島文学資料保全の会) 

 
 8月6日、28歳の三吉は爆心地から3kmちょっと離れた翠町で被爆する。怪我は大したことはなかったが、11日頃から激しい下痢に悩まされた。
 8月15日、父親から敗戦の報を聞かされる。
 
 昼食中父ひょつこり帰り来り、今駅で陛下御自身の御放送に依る休戦の御詔勅聞きたりといふ。事の意外なるに暫し保然たり、唯情け無く口惜しき思ひに堪へず。(峠三吉 同上)
 
 日本が負けるはずはないという「確信」は生まれた時から戦時下にあった若い世代に多かったのではなかろうか。私の父もそうだった。では、なぜ負けたのか。三吉は怒りをぶつけていく。
 
 三千年来嘗て戦いに敗れたることなしといふ歴史を遂にこの世代に於て汚したといふ事は何と取返しのつかぬ無念な事であったか。思へば国民は闇買ひに専念し企業家は利己的な利潤を第一に考へる事を最後迄やめず僅かに眞剣であったのは将兵と若き学徒と素質の良い挺身隊位のものであったといふ、実状では勝てぬのが当然であった。(峠三吉「メモ 覚書 感想」広島大学ひろしま平和コンソーシアム・広島文学資料保全の会) 
 
 1941年、中国戦線で銃弾を受け、下半身不随、そして両足切断の身となって療養中だった私の伯父善明が歌を詠んでいる。すでに日本軍の劣勢が明らかとなった1944年1月の歌である。
 

算盤の珠にみ国のみいのちは籠り居らぬぞ三井三菱

 

上役の鼻息伺ふひしめきの巷に満ちて寒さましゆく(精舎善明 当時23歳)

 
 天皇が現人神なのになぜ負け戦が続くのか、それは周りの人間が腐っているからだと当時の若者は思っていたのだろう。しかし、その周りの人間の中に自分もいたことに三吉は気づく。自分は何もしていなかったと三吉は振り返る。
 
 たとひ体力的に不可能であっても徴用工をでも自ら志願した方が事実の上では何ら役立たなくても、自分の良心に永久のやましさを印さずに済んだといふ点でどれほどよかったことか。
 
 何の役にも立てない自分だからこそ、人一倍忠誠心を発揮しなければならなかった。それは私の伯父も同じ思いだったに違いない。
 

足なくもい這ひよぢりてひとすぢにわが大君の辺にぞ斃れむ(精舎善明 1944年2月)