ヒロシマの8月15日~失望、希望 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 戦後は被爆教師の会結成など平和運動に奮闘された石田明さんだが、原爆に遭うまではバリバリの軍国少年だった。8月6日は武運長久を祈願するため電車で宮島に向かう途中、八丁堀で被爆した。爆心地からの距離は1kmもなかった。即死を免れただけでも不思議なくらいである。

 8月15日、髪の毛は一本残らず抜け落ち、激しい下痢・嘔吐が続いて、石田さんは瀕死の床にあった。そこに敗戦の報が伝わる。石田さんが1965年に書いた長詩「曖光(あいこう)二十年」にその時の激情が書き刻まれている。

 

八月十五日

とぎれとぎれのラジオの声

「うそじゃ!―」大声で叫んだ

「ほんとよう―」疎開していたおばさんが答えた

思わずかっとなって「非国民が!」怒鳴りつけた

最後は勝つ 必ず勝つと信じていた自分だった

(石田明「曖光二十年」部分『被爆教師』一ツ橋書房1976)

 
 石田さんはその時17歳だった。
 大佐古一郎さんは当時30代前半、中国新聞第一線の記者だった。日記を欠かさずつけていて、それをもとに1975年に『広島 昭和二十年』を書かれた。
 敗戦の報を聞くと、大佐古さんはすぐに新聞の「ポツダム宣言」の記事を探して読んだ。「軍国主義の除去」と「民主主義の復活」の文字が目に飛び込んできた。
 

 戦争に負けた悲しさと、束縛から解放されるうれしさが交互に私の心を捕らえる。うれしさの第一は暗い夜が明るくなることだ。二、三軒先の家ではお経を読む声が派手にもう一時間以上も続いているし、もう一軒からはレコードの流行歌が聞こえる。そうだ、権力の束縛はなくなる。(大佐古一郎『広島 昭和二十年』中公新書1975)

 
 藤野としえさんは被爆当時41歳。次男の博久君は広島一中1年生で、原爆で倒壊した校舎の下敷きになって死んだ。8月15日、中国新聞社跡の壁に張り紙で日本降伏の報が伝えられていた。
 
 私は気分が悪くなって来ました。降伏するつもりなら広島をこのようなことにせぬ前に止めてくれたらよかったのにと、残念で残念でたまりません。私は壕に帰って筵をかぶって泣きました。(藤野としえ「星は見ている」秋田正之編『星は見ている』平和文庫2010 鱒書房初版は1954刊)
 
 それでも藤野さんは前を向いていた。
 
 私は長年はき続けたモンペを脱ぎ捨てました。そして京橋川に浸って体を洗いました。涼しい夕風が簡単服を吹き上げて、久しぶりに爽快な気分に浸りました。(藤野としえ 同上)
 
 人それぞれの8月15日があった。