峠三吉『原爆詩集』より13~赤焦げの電車3 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 当時20歳だった児玉冨美子さんが8月6日の朝、国泰寺の大楠の前で見た光景を「原爆の絵」にして平和記念資料館に寄贈されている。

 

 八月六日 朝九時頃

 白神神社の楠の根で舗道が少し高くなっている

 電車の運転手さんらしき人

 転んで「お客さん逃げて下さい」

 「お客さん逃げて下さい」

 「お客さん逃げて下さい」

 燃へてしまった電車の中に、自分も焼けた儘、黒いシルエット の様にずらりと座っている乗客(児玉冨美子「原爆の絵」より 広島平和記念資料館)

 
 この電車は半鋼製の200形電車で201号と見られている。(加藤一考『もう一つの語り部 被爆電車物語』南々社)
 1945年11月ごろに川本俊雄さんが撮影した当時の日本銀行広島支店の写真に焼け焦げた電車がはっきり写っている。内部は全焼しても鋼板製の外殻は残ったのだ。伝言が書いてあるかまではわからない。
 当時日本銀行広島支店3階には広島財務局が入っていた。爆心地からわずか380mの距離で、原爆の閃光が走ったと同時に窓の厚いガラスを突き破って爆風が飛び込んで来た。
 財務局に勤務していた平岩好道さんは、ピカもドンもわからなかったという。部屋の中は真暗になったが、闇が次第に薄れていくと、窓から見える電車通りにはあちらこちらに火の手が上がり始めた。しばらくすると国泰寺の大楠も燃え始めたという。
 
 火は迫り、電車道に停まった電車に火がついて、もの凄い炎をあげて燃え、三階の窓の高さも越えていた。そのうちに、三階の室に火が入った。(平岩好道「日本銀行支店三階の惨状」『広島原爆戦災誌』)
 
 8月6日月曜日、この日の朝、市内の電車はどれもぎゅうぎゅう詰だったようだ。日銀の前で爆風を受け脱線した電車の中から何人かは脱出できた人がいたのだろう。児玉冨美子さんは、車外に倒れても「お客さん逃げて下さい」と叫びつづける運転士の姿を見ている。また、その日の午後財務局に駆けつけた相原勝雄さんは日本銀行広島支店1階で全身焼けただれた女性の車掌に気がついている。
 
 ようやく袋町の日本銀行に着いた。南通用門入口には、重傷を負った多くの職員と、全身焼けただれて苦しんでいる女車掌や乳呑子を抱いてうずくまっている婦人などで、足を踏み入れることもできないありさまであった。(相原勝雄「財務局の惨状」『広島原爆戦災誌』)
 
 当時市内電車の運行は、ほとんど広島電鉄家政女学校の女学生が担っていた。