峠三吉『原爆詩集』より2~専売局前 | ヒロシマときどき放送部

ヒロシマときどき放送部

2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 父とともに翠町の姉の嫁ぎ先の家で被爆した峠三吉は、「付近の兵士分宿所」の前で父の怪我の応急手当てをしてもらった。

 そして夕方近くになって御幸橋の東詰、皆実町の専売局前に設置された「臨時宇品警察署」に出かけた。

 

 夕方近く専売局前の臨時宇品警察所へ行きて列に並び罹災証明を受け乾パンの配給を受く。トラックにて運ばれ来る負傷者多し、負傷せざるもの姿少なし。(峠三吉「被爆日記」)広島大学ひろしま平和科学コンソーシアム・広島文学資料保全の会)

 
 宇品警察署は宇品港に面した場所にあり、爆心地からは約5km離れていた。『広島原爆戦災誌』によると、何人かの署員が負傷したので須沢署長が千田町にある医院に送ろうと自動車を出させたが、御幸橋を渡ったところで逃げてくる無数の被災者と出会い、鷹野橋から市内中心部にかけては一面火の海となろうとしていた。前進することは不可能で、御幸橋西詰の千田町交番所まで引き返した。
 9時か10時ごろ、備蓄していた救急用の食用油を千田町交番所まで持ってこさせ、応急手当を行ったが、このあたりになると人によって、体験記によって話が少しずつ違ってくる。それはあの大混乱の中だからやむを得ないことだろう。
 中国新聞社カメラマンであり中国軍管区司令部付の報道班員であった松重美人さんが翠町の半壊の自宅から市内中心部をめざして御幸橋を渡ったのが午前9時半ごろ。炎にさえぎられて御幸橋に引き返した時は午前10時を過ぎていたが、その時、交番の前で何十人もの被災者が応急治療を待っているのに気がついた。(松重美人『なみだのファインダー 広島原爆被災カメラマン松重美人の1945.8.6の記録』ぎょうせい2003)
 

時がたつにつれて、負傷者の数はぐんぐん増えて、あの長い御幸橋の両側が、負傷者で一ぱいになった。髪は焼けちぢれ、衣服は引き裂かれ、男女の識別もつかない。全身焼けただれて意識もうろうの母親の体にすがりついている幼な子は、泣き声も出ないらしい。

「熱い。助けてくれ。どこかへ連れて行ってくれ!

 「水、水、水を飲まして……」(松重美人 『広島原爆戦災誌』第五巻「被爆広島の写真記録者たち」)
 
 午前11時過ぎ、松重さんは目の前の悲惨な光景にやっとシャッターを切った。
 松重さんは「罹災証明書を書いている藤田徳夫巡査」の写真も撮っている。午後5時ごろのようである。罹災証明書があれば列車に優先的に乗れたり、避難先であっても配給を受けることができた。
 『広島原爆戦災誌』によると、専売局前に「宇品警察署の本部とでもいうべきもの」をおいたのが午前10時半ごろであったという。
 敵は新兵器を使用したらしい、千田町から向こうは火の海で、死体と重傷者で満ちているという話を峠三吉が聞いたのはその日の夜のことであった。