かつて宮島の管絃祭には家族だけで屋形船に乗り優雅な海の祭りを楽しむのが村川家のならわしだった。
それは、原爆によってそれまで当り前であった景色、当り前であった人とのつながりが消えてしまった世界に生きる村川有紀子にとって、振り返れば、幻のようにも、別の世界の出来事のようにも感じられたであろう。
村川有紀子は、広島第一県女の卒業前を被服支廠倉庫の臨時教室で過ごした。
嬉しいはずの授業の再開であったが、有紀子は自分の心の置き所を定めかねていた。あてもないのに、まだ何かを待ち、何かを探し残してきたような気持が動いている。(竹西寛子『管絃祭』)
爆心地からわずか600mのところにあった広島第一県女の校舎は灰燼に帰し、将来への思いを語り合った三井直子も16歳の生涯をここで閉じた。多くの友人、知人がその日から姿を消した。
そして、戦争が終わり一挙手一投足にいたるまで縛りつけていたものが解かれてみると、有紀子はこうも思うのだった。
私はどこへ行くのか。どこへ行けばいいのか。どこへ行けるのか。(竹西寛子 同上)
これらの思いに捕らわれるのは翌年進学した広島女子専門学校でも続いた。そして有紀子は「心の置き所」を、それからもずっと探し続けたのではないか。それが『管絃祭』ではないのか。
かつて家族団らんの思い出がこもる管絃祭に有紀子は一人で出かけた。有紀子はちょうど母親のセキが被爆した時の年齢である。
時は移ろい、人もまた移ろう。
私は、本当は「私」という殻はなく、影のように移ろう。そして人とつながる。それは今生きている者だけではない。
管絃祭のただなかで、雅楽の美しい音色を聞くうちに、有紀子の目に母セキの後ろ姿が見えた。母だけでなく、生前親しかった広島の死者の誰もがすぐ目の前にいる。千吉がそうであったように、治子や秋子や宮島の老人がそうであったように、有紀子もまた目の前の死者と向き合う。
父といわず母といわず、火に追われ、火に焼かれた友達といわず、この世に生を享けた者誰一人として逃れることのできなかった死が自分にも訪れる時を、有紀子は、この管絃祭のはなやぎにいて、いまだかつておぼえのない切実さで思い描いていた。(竹西寛子 同上)