『管絃祭』より12~滝沢治子の返事 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

太田川 

 滝沢治子は村川有紀子の子どものころからの知り合いで、母親同士も知り合いだったから、有紀子は母セキの死を治子に知らせた。

 治子からの返信の中に次の一節があった。

 

 辛いでしょう。風や雲を父や母と見るまでに、私は三十年近くもかかりました。(竹西寛子『管絃祭』)

 
 治子の家は元安川から東に500mも離れてはいなかったという。8月6日当日、治子は熱を出して呉に近い寮で寝込んでおり、その日のうちに駆けつけることは出来なかった。家は、今の中町のあたり、あるいは袋町小学校のあるあたりか。爆心地すぐ近くである。治子が駆けつけた時も焼跡はまだ熱くくすぶっていた。父と母が消えた。
 

 焼跡に入って二日目、夕暮れの空を見ていて、治子は急に、私は孤児になるかもしれぬと思った。はじめての恐怖に冷えた。(竹西寛子 同上)


 私が、取り残される、という恐怖。

 多くの人がそうであったように、治子は父母を探した。救護所という救護所、橋の下、電車の中、島にも渡った。
 治子は結婚してから夫に勧められて、また広島を歩くようになった。何か手掛かりでもと一年に一度歩く中で、歳とともに移り行く広島の風景を強く意識するようになった。広島はだんだんと見知らぬ町になっていく。

 

 いつの頃からか治子には、この土地を通り過ぎて行くものでしかない影のような自分が見え出してきた。(竹西寛子 同上)

 
 しかし治子は思い到った。
 
 私はこの土地に生まれ、ここで育てられはした。だが、そのあいだでも、たとえひとときにもせよ、通り過ぎて行く者でなかった時があったろうか。(竹西寛子 同上)
 
 「私」とは、実はこの土地を通り過ぎていく「影」のようなものである。移ろいゆく「影」である。でも、そのことを治子は悲観的に捉えているわけでもない。
 「私が」という殻が取れて、それは影となり光となり、風のそよぎや雲のたなびきとなって、移ろいまじりあう。
 するとそこにはかつての父や母も見えて、治子は広島という風土に限りない愛おしさを感じるのだった。
 治子の返信の中の一節は、有紀子の心にいつまでも深くとどまった。