青年団2 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 父は京都での学生時代、同好会で雑誌を発行していたようである。

 

 粗末だけど学生の同好会で発行していた「日校研究」。これには幼い頃の夢が一ぱいくっついている…(精舎法雄「小人の宿」都谷中央青年団『青年』第13号 1957.2)

 
 日校といえば、お寺で日曜日に子どもを集めて開く日曜学校である。父の「幼い頃の夢」が何だったのかはわからないが、父も後に寺で日曜学校を開いた。
 「京の東山、三条通り、五重の塔」(精舎法雄 同上)とともに、同好会での活動、その中での機関誌の発行は、父にとって青春時代の大切な思い出であった。
 都谷(つだに)中央青年団の活動は、1951年の青年団会計決算(都谷中央青年団『青年』第13号 1957.2)を見ると、機関誌発行のほかにも盆踊り、演芸会、映画会、料理講習会の開催、さらには農事視察などもあってなかなか意欲的である。
 『青年』への寄稿も、エッセイ、詩、短歌などとともに、「菜種の栽培について」「養鯉について」「農民保健について」等々、目の前の仕事、日常生活の在り方について、旧慣を廃し新しい農村文化の建設に貢献しようとする青年たちの熱意がひしひしと感じられる。
 ただ、当時の政治、社会をどのように見ていたのか、関わっていこうとしていたのかについては、紙面からはほとんど見えてこない。父はその事が気になっていたように思える。
 『青年』創刊号が発行されたのは1950年7月1日。当時日本国内はドッジ不況による企業の倒産と労働者の大量解雇、世界では東西の冷戦の中で朝鮮戦争が勃発した。
 

 あゝ戦争とはこんなに悲惨なものであり人間を不幸にするものであろうか。我々は何のためにこんな事をしなければならなかったのか。

(精舎法雄「逆境は恩寵なり」都谷中央青年団『青年』創刊号)

 

 父にとって原爆を体験しての非戦の思いは終生変わらぬものがあった。しかし再び始まった戦争に、父は「イデオロギーの違いはこんなにまで人を争はせずにおかないものであらうか」(精舎法雄 同上)と悲嘆し、そして次のように決意するのだった。
 
 憲法に戦争の放棄を誓ったのは原爆の洗礼を受けた日本人にして始めて出来るのである。我々の作った憲法は我々で守り、その精神を生かして行かねばならぬ。(精舎法雄 同上) 
 
 しかし父は『青年』の編集をわずか2度行っただけで、編集部を去らなければならなかった。家庭の事情が青年団活動への没頭を許さなかったのだ。