原爆がさく裂した瞬間、広島女学院2年生の村本節子さんは猛烈な光が目に入った。そしてそれとほとんど同時に大きな石のようなものが落ちてきた。
同時に非常な大音響と共に、大きな石のようなものが身体の周りに落ちてきた、胸がそれにはさまって呼吸がせつなく、全身が八ツざきにされたように疼いた。その時、近くで聞きなれた声で、多くの友だちの死の叫びをきいた。(村本節子 『広島原爆戦災誌』)
同じ広島女学院2年生の迫田尚代さんはピカッと光った瞬間、両手を泳がせて地面にもぐるような恰好をとって、そのまま気絶した。
気が付くと真っ青な空が見えた。雲一つない透明で、善良で、明るい、真っ青な空だけが私の視野にあった。地に向かって潜ったはずなのに、私は仰向けに倒されていて、胸の所まで厚いコンクリートの塀で押さえ付けられていた。信じられない出来事だった。(愛宕(旧姓迫田)尚代「四次元の炎」広島女学院同窓会『平和を祈る人たちへ』)
胸を押さえつけている塀はさっきまで石垣の上にあった家の塀だと気付いた。近くで「お母さーん」と身動きできない人たちの助けを呼ぶ声が聞こえた。迫田さんはなんとか自力で倒壊した塀の下から抜け出ることができた。
「家に帰りたい。でも、どちらに行けばいいのだろう」。すると、「迫田さん」。突然、呼びかけた相手は、両手を胸の辺りに持ち上げて、目も鼻も平面化し、ぼろ布をワカメのようにぶら下げた少女であった。「私よ、忠岡よ。荷物置場の当番してたら、ドーンというて真っ暗になって、何んものうなったん。連れて逃げて」。
荷物を置いた一中の南庭(運動場)に閃光を遮るものは何もない。忠岡さんはひどい火傷をおっていた。
一方、迫田さんは塀の下から抜け出るとき左膝がぱっくり割れたような裂傷をおったが、不思議なことに火傷らしい火傷はしていなかった。出汐町の被服支廠で手当てをしてもらったとき、左右の肘にわずかに5cm四方火傷をしていることが分かった。
迫田さんは雑魚場町にいた広島女学院の生徒二百数名のうち、生き残った10人たらずの中の一人だったと、「四次元の炎」に書いておられる。