「この世界の片隅に」~兵士2~ | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 被爆当時19歳だった森脇昭幸さん(仮名?)は西部第九部隊電信隊に所属し、兵舎は今の市民球場跡地のあたりにあった。爆心地と言ってもよい場所である。(森脇さんの体験記が収められている『原爆体験記』は、森脇さんは爆心地から2.5km離れた皆実町で被爆したとしているが、船舶通信隊と混同しているのではなかろうか)

 6日の朝、森脇さんたちは野外演習に出かけるため完全武装で兵舎内に待機していた。原爆の閃光が走った途端、兵舎の瓦、梁、柱が一気に崩れ落ち、下敷きになった森脇さんは死を覚悟したが、それでも頑張って瓦や材木をはねのけ、ようやく半身が外に出た。

 

 手を頭にやると少し亀裂を生じている。生温かい血が手を伝わり流れ来る。右手の甲を見れば、皮膚はやけどをしたかの如く皮が剥がれている。また凄くそこが熱走る。喉が渇いてやりきれない。水、水が欲しい。(森脇昭幸「ビンタのあとで」広島市原爆体験記刊行会編『原爆体験記』)

 
 周りの家屋は火に包まれ、ほかの兵士の姿は見えない。すでに逃げ出したのだろうか、それとも兵舎の下敷きになったままなのだろうか。
 
 雨はいつ降り出したかバラバラ頭を打つ。軍服はボロボロに破れ、裸同様である。痛い、熱い、寒い、一緒に来る。(森脇昭幸 同書)
 
 さまよい歩く森脇さんは、雨がやみ、強い日差しにさらされる中、立っていることも出来なくなって気を失ってしまった。
 気づいた時は夕暮れになっていた。ふらふらと歩く中、前方に灯りが見え、たどり着いてみれば臨時の救護所だった。
 救護所で治療してもらった森脇さんは少し楽になったが、周りでは次々と人が死んでいった。
 救護所でお母さんと会えたのは8月10日のことだった。
 

 六カ月ぶりに見る母の顔。六カ月の間にひどくやつれて見える。顔を合わすなり涙がどちらからとも出る。何もいえない。胸が一杯だ。

 母は白い米のニギリを出して食べさせてくれる。今朝早く故郷を出たと思われる。わらじばきの足は埃だらけになって痛々しい。(森脇昭幸 同書)

 
 森脇さんは、一日も早くお母さんと一緒に故郷に戻りたい、そう願うのだった。
 
 広島城の地下壕で被爆した岡ヨシエさんが次のように証言されている。みんな苦しい息の中でお母さんを呼んだのだ。
 
 負傷した兵隊さんが地の底からうめく様な苦しい声で「おかあさーん」と叫んでいるのが暗い夜空に尾をひいて、まるで地獄に居る様な思いだった。(岡ヨシエ「交換台と共に」旧比治山高女第5期生の会『炎のなかにー原爆で逝った旧友の25回忌によせてー』)
 
 広島市が『原爆体験記』の原稿を募集したのが1947年。1950年に出版されるはずだったが、占領軍の圧力で一度は陽の目を見なかった。
 1965年になってやっと出版できることとなり、出版社は改めて筆者の消息をたずねた。
 森脇さんの体験記の末尾に、こう付け加えられている。
 「筆者はその後消息不明」