今、広島市中心部から可部(広島市安佐北区)まで車で30分ぐらいだろうか。1945年8月6日、炎天下の可部街道をあえぎながら歩いて、負傷者の第一陣が可部の町にたどり着いたのは午前11時ごろだったといわれる。その後、警防団や軍隊が重傷の人々を荷馬車やトラックで次々と運んできた。
2002年8月、放送部の生徒と一緒に学校近くの東野公民館で開かれたピースコンサートに出かけたのだが、そこで出会ったのが宮本さんご夫妻だった。後日ご自宅でお話を伺うことができた。
宮本ミエコさんは当時被爆者の看護をしたと言われた。場所は広島市北部の可部町(当時)、品窮寺(ほんぐうじ)というお寺だった。広い本堂の中に傷ついた人たちが魚を並べたように横たえられ、そして、呻いていた。
中学生の人が、背中が全部焼けてるわけ。だから寝られないでしょ。横にもなれないから、こう、ふさっとってね。そして、「姉ちゃん、みずー、みず―、痛いよー」といっているわけ…。(宮本ミエコさん 安古市高校放送部テレビドキュメント番組『つながれ平和のリボン』2003より)
私たちは、可部に向かった。