NHKの「ヒバクシャからの手紙」に瀬戸高行さんが被爆体験談を寄せている。瀬戸さんは当時、広島駅構内で客車の入れ替え作業に当たっていた。
瀬戸さんも閃光を浴びてひどい火傷をおい、尾長町の鉄道寮に避難した。それでも復旧作業に当たらねばと、午後3時ごろに広島駅に戻った。
広島駅では、ホームの上屋根が本線上の客車の上に落ちかかって全線が不通になっているため、上司の運転主任の命令によって、入換機関車を使用して客車を引き抜いて本線を開通させる復旧作業を担当しました。広島駅の本館は鉄筋建築であったため焼失はまぬがれましたが、そのほかの詰所はほとんど焼失しており、上司の運転主任さんも火傷のケガをされており、同僚の多くもケガをされていました。(瀬戸高行 NHK「ヒバクシャからの手紙」)
『広島原爆戦災誌』によると、被爆当時広島駅には一番線に下り旅客列車、五番線に上り旅客列車が停車していた。そのほかにも多数の客車・貨車が駅構内や操車場に停留していたが、負傷した職員の奮闘で退避させ火災から守った。
当時、広島駅北の東練兵場には軍用の線路が引いてあった。列車はそこに回行され、負傷者を乗せて西条町や海田市方面に輸送した。当時西条町には傷痍軍人広島療養所(現 国立病院機構東広島医療センター)があった。瀬戸さんによると、避難列車第一号が発車したのは6日12時ごろだったという。
Oさんが列車に乗せた寮母さんも傷痍軍人広島療養所に運ばれたが、翌日には亡くなっていた。地元の人が火葬してくださった。
横川駅方面への下り線は8日まで不通だった。京橋川に架かる神田川鉄橋では、広島操車場からの下り貨物列車49両が上り線路上に転覆していた。機関士は無事だったが、貨物は川に散乱した。
原民喜は手帳に「川ハ満潮、玉葱ノ函浮ビクル」と記した。
重松静馬さんは『重松日記』に次のように記している。
九分通り渡った橋上に、貨車が横に倒れていたが、辛うじて渡れる。貨車の下の水面は転げ出た玉葱で覆われて、水は見えない。(重松静馬『重松日記』)
少し後のことか、川岸には広島城の地下壕にいた比治山高女の生徒もたどり着いた。鉄橋で横倒しになった貨車は燃えていた。玉葱の木箱が浮き沈みしながら流れてくる中を、生徒たちは対岸に向かって泳ぎ始めた。(旧比治山高女第五期生の会『炎のなかにー原爆で逝った旧友の25回忌によせて』より)