御幸橋から左に平野町を見る。(2013撮影)
重松静馬さんの被爆体験記『重松日記』には、重松家の避難場所を広島文理科大学グランドのプールに決めていたと書かれている。
グランドは避難者でごった返していた。避難者の間を潜り、プールに近寄った。プールのふちに、背負い袋を背負い、毛布を膝にのせている妻を見つけた。(重松静馬『重松日記』筑摩書房)
1945年7月25日にアメリカ軍が撮影した航空写真には広島文理科大学のグランドとプールが鮮明に写っている。(財団法人日本地図センター『地図中心 被爆60年増刊号』2005参照)
グランドは広島文理科大学本館裏手から南に4~500mほど歩いたところにあった。今の千田小学校や広電車庫から東に道路を渡ったところにある広電ボウルや平野公園のあたりである。その道路は、当時は平田屋川という広島城築城当時に掘られた運河であった。
上の写真、京橋川の右岸にビルが並んでいる。左から三つめのビルの裏側あたりに、かつて大学のプールがあった。
このあたりが燃え出したのは、『広島原爆戦災誌』によると、午前10時ごろ。広島電鉄車庫から火が出て、千田国民学校、平野町、南竹屋町と燃え広がっていった。重松夫妻がグランドから宇品の日通支店に向かったのは、その前ということになる。
一帯の火が鎮まったのは午後4時頃であったという。
御幸橋に戻りついた。自宅の方角を見ると、家は一軒もない。余燼の煙が地をなでる様に、東に向って流れていた。(同上)
8月6日当日の御幸橋での光景を中国新聞カメラマンの松重美人さんが写真に撮られたのが午前11時過ぎである。松重さんはその前に京橋川沿いに平野町を通って八丁堀方面に向おうとしたものの、火焔に阻まれて御幸橋に引き返していた。
松重さんは午後になってもう一度市の中心部に向かった。左手に大学グランドのプールが目に入った。
社の存否を思い、午前中その場を通った時は、満々とあったはずの水は、火災で蒸発、空っぽのプールの中に数人の方の遺体がありました。(松重美人『なみだのファインダーー広島原爆被災カメラマン松重美人の1945.8.6の記録ー』ぎょうせい2003)
プールの水が無くなったのは、「蒸発」とは限らないが、火災の激しさを物語るものであることに間違いはない。重松夫妻も避難があと少し遅れていたら命は危なかったかもしれない。