向洋の東洋工業は爆心地からの距離約5.3kmということもあり被害の程度は軽微で、東洋工業の原爆による即死者119名(『広島原爆戦災誌』)は義勇隊や出張など市内にいた人たちということになる。
『東洋工業三十年史』には、終戦時に朝鮮人徴用工が324名いたと記されている。観音・江波の三菱の場合、深川宗俊さんによると「同年(1945年)五、六月にかけて、逃亡者が多く」(『鎮魂の海峡』)、7月中旬には当初の2800人が約1000人に減っていた。そして8月25日の徴用解除のころに残っていたのは約900人であった。それから類推すると東洋工業に送り込まれた朝鮮人徴用工の人数は約1000人とみてもおかしくはないだろう。その人たちが義勇隊などで市内に出ていた可能性はある。原爆による朝鮮人徴用工の即死者はあったのだろうか。
原爆の被害を受けた民間の軍需工場として次にあげられるのが、爆心地から6kmばかり離れたところにある祇園町の三菱重工第二〇製作所(広島精機)と油谷重工である。いずれも工場の被害は軽かったが、爆心地近くの小網町、水主町方面に義勇隊を出動させていた。
三菱重工は、義勇隊員236名のうち即死者53名、負傷者183名という惨事となった(『広島原爆戦災誌』)。
『崇徳学園百二十年史』によると、義勇隊員の中には崇徳中学3年生約100名が含まれていた。朝8時ごろ広電天満橋東詰に集合し、天満川沿いの建物疎開作業を始めていた。中学生の即死者は55名であったという。『広島原爆戦災誌』の記述との違いが見られるが、正確な数字はもう確かめようがないだろう。
油谷重工では8月2日から毎日約160名の義勇隊が水主町方面に出動して建物疎開作業に当たった。8月6日は天神町の旅館一軒を取り壊す作業だけが残っていた。当日出動した義勇隊員は男性137名、女性23名。そのうち崇徳中学は3年生21名、付設科14名。
原爆で油谷重工義勇隊は全滅した。
「火ぶくれになったわが子の遺体を抱いて、うちの子はかわいい顔していた。ああ見るんじゃなかった」とふるえ泣く学徒の母の姿もあった。それほど無残な姿になっていた。(『崇徳学園百二十年史』)