基町河川敷のニセアカシアの木(2010撮影)
現在でこそ川べりの樹木は景観や治水、生態系保全の機能が注目され、新たに植樹をする際のルールも定められている。しかし、1979年に基町の河川敷の整備が始まった時はそうではなかった。
大段徳市さんが1974年10月に撮影した基町河川敷の写真には、川べりに何本もの木が生えているのが見える。その中には双子のように並んでいる2本のポプラの木もある。
環境護岸を設計した東工大教授(当時)の中村良夫さんは「当時、高木が4~5本くらい残っていてデザインの観点からポプラとニセアカシアの木を残すことを主張した」(『土木学会誌92』2007)と回想している。日本で初めて景観をデザインした護岸設計は、河川敷の樹木は伐採という当時の行政の常識を覆すものだった。結果、川から一番離れていたニセアカシアと、そしてポプラを1本だけ残すことができた。ポプラはこの河岸のランドマークとなった。
1967年7月の基町大火を撮影した写真(「中国新聞」1967.7.28)には、これらの木は写ってはいない。写真には炎が迫る川べりにポプラの木が1本見えるが、これも焼けてしまったに違いない。大段さんが8月2日に撮影した写真には、ただ一面の焼け野原が写っているだけである。
ところが、同じく大段さんの1971年12月の写真では、川べりに木が植えてあるのが確認できる。対岸から撮った遠景の写真であり、冬なので確認できるのは2本だけだが、火災の後で植樹されたのは間違いないだろう。ポプラの木はあるかないか残念ながらよくわからない。
中国新聞の記録によると、1967年7月27日の大火の4日後、県が火災の跡地に有刺鉄線でバリケードを設置し、被災者ともみあって負傷者が出たとある。
その後に、まるで跡地を囲うように木が植えられた。ポプラもニセアカシアも自然に生えるものではない。誰かが植えたのだ。もしかしたら行政側で植えたのかもしれない。有刺鉄線ではなく緑で囲うことにより、ここが公園になる、みんなのものになるということで、ここで暮らしていた人たちと折り合いをつけたのだろうか。
残ったポプラとニセアカシアの木は基町環境護岸のランドマークとなった。しかし、それだけではない。焼け野原の広島で、住む所にも食べるものにも不自由する中、緑豊かな新しい理想の広島の街を夢見た人たちの記念碑のようにも思えるのである。