2009年と2010年の2度にわたって平和記念資料館は「佐々木雄一郎写真展」を開催した。今は資料館のweb siteで企画展のパンフレットを閲覧することができる。
佐々木雄一郎さんは、1945年8月18日に広島に戻ってから1980年に亡くなる晩年まで、原爆ドームを中心に被爆の実態を記録し続けた。撮影した写真は4000枚にのぼるといわれる。
パンフレットの写真は、その中のごく一部分ではあるけれど、戦後の広島を生きる人々の姿がよくとらえられている。
1951年、平和公園の整地作業を、おそらく建設中の資料館から撮った写真がある。原爆ドームやレストハウスの位置から見て、作業員が掘り返しているのは今の慰霊碑のあるあたりだろう。そのそばからレストハウスの間にはバラックが密集している。
働いている人たちの中には被爆した人も多かった。
平和記念公園一帯でつるはしを振り、もっこを担いだ作業員の中には、失業対策事業で集まった人々も多かった。家族や職場を奪われた被爆者、戦争で夫を亡くした女性―。広島市の記録では、平和記念公園を含む市内の基盤整備に携わった同事業の就労者は60年代初めの最盛期で7千人を超えた。(中略) 「みんな原爆が落とされた街を、復興させたい一心だった」。西区の広木昭代(てるよ)さん(85)はそう振り返る。(「中国新聞」2012.7.5)
佐々木雄一郎さんの写真には掘り出された遺骨も写っている。パンフレットには次のように書いてある。
平和記念公園から出土した遺骨 昭和30(1955)年 中島町
平和記念公園の工事中、食器のかけらや黒焦げになった家財道具とともに、多くの遺骨が掘り出された。かつてここに、にぎやかな街があり、たくさんの人が暮らしていたことを、改めて思い起こさせる出来事であった。(広島平和記念資料館「平成21年度第1回企画展 佐々木雄一郎写真展」2009)
広木さんが平和公園の現場で働きだしたのは1957年からだが、何度も遺骨を見つけたようである。
長女をおぶったまま、整地や護岸の石積みに励んだ。原爆で亡くなった人の骨を見つけるたび、きれいに洗って手を合わせた。(「中国新聞」同上)
写真からみると、平和公園建設でかなり土が掘り返されているようである。まだ、骨は埋まっているのだろうか。