骨は今も埋もれたままか 74 平和公園10 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 2009年と2010年の2度にわたって平和記念資料館は「佐々木雄一郎写真展」を開催した。今は資料館のweb siteで企画展のパンフレットを閲覧することができる。
 佐々木雄一郎さんは、1945年8月18日に広島に戻ってから1980年に亡くなる晩年まで、原爆ドームを中心に被爆の実態を記録し続けた。撮影した写真は4000枚にのぼるといわれる。
 パンフレットの写真は、その中のごく一部分ではあるけれど、戦後の広島を生きる人々の姿がよくとらえられている。
 1951年、平和公園の整地作業を、おそらく建設中の資料館から撮った写真がある。原爆ドームやレストハウスの位置から見て、作業員が掘り返しているのは今の慰霊碑のあるあたりだろう。そのそばからレストハウスの間にはバラックが密集している。
 働いている人たちの中には被爆した人も多かった。
 
 平和記念公園一帯でつるはしを振り、もっこを担いだ作業員の中には、失業対策事業で集まった人々も多かった。家族や職場を奪われた被爆者、戦争で夫を亡くした女性。広島市の記録では、平和記念公園を含む市内の基盤整備に携わった同事業の就労者は60年代初めの最盛期で7千人を超えた。(中略) 「みんな原爆が落とされた街を、復興させたい一心だった」。西区の広木昭代(てるよ)さん(85)はそう振り返る。(「中国新聞」2012.7.5)
 
 佐々木雄一郎さんの写真には掘り出された遺骨も写っている。パンフレットには次のように書いてある。
 

平和記念公園から出土した遺骨 昭和30(1955)年 中島町

 平和記念公園の工事中、食器のかけらや黒焦げになった家財道具とともに、多くの遺骨が掘り出された。かつてここに、にぎやかな街があり、たくさんの人が暮らしていたことを、改めて思い起こさせる出来事であった。(広島平和記念資料館「平成21年度第1回企画展 佐々木雄一郎写真展」2009)

 
 広木さんが平和公園の現場で働きだしたのは1957年からだが、何度も遺骨を見つけたようである。
 
 長女をおぶったまま、整地や護岸の石積みに励んだ。原爆で亡くなった人の骨を見つけるたび、きれいに洗って手を合わせた。(「中国新聞」同上)
 
 写真からみると、平和公園建設でかなり土が掘り返されているようである。まだ、骨は埋まっているのだろうか。