平和公園原爆供養塔の説明版には、「昭和62年(1987年)8月6日 縮景園で発掘された遺骨64柱を納骨する」という記載がある。
納骨のきっかけは、朝日新聞社カメラマン松本栄一さんが1945年9月に撮影した縮景園の写真だった。写真には「戦死者の墓38名」「戦死者墓5名」「戦死者21名」という3本の墓標が写っていることが1987年7月になって初めて確認された。
1987年7月31日に県教委は遺骨の発掘を行い、その日のうちに数千点の遺骨を確認した。県教委は墓碑銘のとおり「64人分の遺骨」と断定した(中国新聞「ヒロシマの記録」)。翌年、遺骨が発掘された場所には慰霊碑が建立された。
広島城のすぐ東側にある縮景園は江戸時代に造園され、1940年に元広島藩主浅野家から園内の私立美術館である観古館(現 広島県立美術館)とともに広島県に寄贈され国の名勝に指定された。市民は泉邸と呼んで親しんでいた。
戦時中、幟町など近くの町民は縮景園が避難場所に指定されていたので、原爆が投下されると、多くの人々が縮景園に逃げて来た。しかし、縮景園は爆心地からわずか1.35km。ここでもまた、火焔につつまれる中、多くの人が命を落とした。
上がると泉邸の北端であった。川が見える。驚いた事に老樹の並木の下は 横たわった人でうずまっている。どこから集って来たのか判らない。川へ下りる所は、二重三重の重傷者の人垣である。"痛い!水!助けてくれ!"の合唱である。(有木重雄 当時広島市立中学校3年生 「福屋前、電車内にて」『広島原爆戦災誌』)