骨は今も埋もれたままか 53 峠三吉と正田篠枝 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 1951年2月、正田篠枝の父逸蔵が胃がんで亡くなった。67歳だった。篠枝は父の死後、京橋川に面した自宅を改装して割烹旅館を始める。河畔荘と呼ばれた。

 峠三吉が河畔荘を訪れたのは1952年10月だった。三吉は篠枝の短歌や詩を見て、出版して世に問おう、もっと書きなさいと篠枝を励ましたという。篠枝は三吉の励ましを支えにして、のちに詩歌集『耳鳴りー被爆歌人の手記』を出版する(広島文学資料保全の会『さんげー原爆歌人正田篠枝の愛と孤独ー』 『中国新聞』1983.11.3)。

 そのころ峠三吉は吉川清らと「原爆被害者の会」を立ち上げていた。結成に当たって峠らは「私たちは永久に廃墟にはえた雑草のかげに見捨てられてしまう」と危機感をつのらせ、「どうしても私たち自身が立ちあがり、手をつないでいかなければ」と被爆者の立ち上がりと連帯を訴えた。それは三吉の詩と強く響きあっている。

 しかし、こんな詩の一節もある。

 

 眼を閉じて腕をひらけば 河岸の風の中に

 白骨を地ならした()の都市の上に

 おれたちも

 生きた 墓標 (「河のある風景」『原爆詩集』岩波文庫)

 

 「負けるものか」と叫ぶ三吉もあれば、「おれたちも生きた墓標」とつぶやく三吉もいる。自分のありのままの姿を『原爆詩集』に詰め込んだのだろうか。

 峠三吉の命は長くはなかった。1953年2月、肺の手術を決意し、そのことを正田篠枝に伝える。2月15日、正田篠枝やサークルの仲間に見送られて西条の国立療養所に向かった。そして3月9日、手術を始めるも心臓が衰弱して中止。翌日、三吉は36歳の生涯を終えた。

 

 雪の中を ずぶ濡れの 三吉が訪ね来て 死の手術と知らず 入院を告げぬ

 

 「詩は必ず書け」と 言いくれし 友は世になし われを残して

 

 貧しけれど 情愛深き 三吉なりき われは石碑を 撫でて嘆くも

 (正田篠枝『ひろしまの河』第9号)