1951年2月、正田篠枝の父逸蔵が胃がんで亡くなった。67歳だった。篠枝は父の死後、京橋川に面した自宅を改装して割烹旅館を始める。河畔荘と呼ばれた。
峠三吉が河畔荘を訪れたのは1952年10月だった。三吉は篠枝の短歌や詩を見て、出版して世に問おう、もっと書きなさいと篠枝を励ましたという。篠枝は三吉の励ましを支えにして、のちに詩歌集『耳鳴りー被爆歌人の手記』を出版する(広島文学資料保全の会『さんげー原爆歌人正田篠枝の愛と孤独ー』 『中国新聞』1983.11.3)。
そのころ峠三吉は吉川清らと「原爆被害者の会」を立ち上げていた。結成に当たって峠らは「私たちは永久に廃墟にはえた雑草のかげに見捨てられてしまう」と危機感をつのらせ、「どうしても私たち自身が立ちあがり、手をつないでいかなければ」と被爆者の立ち上がりと連帯を訴えた。それは三吉の詩と強く響きあっている。
しかし、こんな詩の一節もある。
眼を閉じて腕をひらけば 河岸の風の中に
白骨を地ならした此の都市の上に
おれたちも
生きた 墓標 (「河のある風景」『原爆詩集』岩波文庫)
「負けるものか」と叫ぶ三吉もあれば、「おれたちも生きた墓標」とつぶやく三吉もいる。自分のありのままの姿を『原爆詩集』に詰め込んだのだろうか。
峠三吉の命は長くはなかった。1953年2月、肺の手術を決意し、そのことを正田篠枝に伝える。2月15日、正田篠枝やサークルの仲間に見送られて西条の国立療養所に向かった。そして3月9日、手術を始めるも心臓が衰弱して中止。翌日、三吉は36歳の生涯を終えた。
雪の中を ずぶ濡れの 三吉が訪ね来て 死の手術と知らず 入院を告げぬ
「詩は必ず書け」と 言いくれし 友は世になし われを残して
貧しけれど 情愛深き 三吉なりき われは石碑を 撫でて嘆くも
(正田篠枝『ひろしまの河』第9号)