「暁部隊」全部隊に、広島へ救助に向かうよう出動命令が出たのは、8月6日11時30分だった。江田島の幸ノ浦からも、上陸舟艇で続々と宇品港に向かった。
佐々木博さんの部隊は、日赤から左に入った橋の周辺で救助作業に入った。日赤から鷹野橋電停を経て元安川にかかる明治橋を渡ると県庁のある水主(かこ)町、そこを西に進むと本川の住吉橋のたもとに至る。
川の土手には沢山の負傷者が火傷を負い、火災の熱さをのがれるために川に入ったり、土手に這い上がったりして、我々を見ると「兵隊さん水、水!」と水を求めていた状態でした。舟艇で負傷者を運ぶとかで、橋のたもとに運ぶ作業を夜通しかかって行いましたが、集めた負傷者の中には朝方明るくなるにつれて、死んでいったものも多くありました。(『広島原爆戦災誌』)
そのころ、天神町の坂本潔さんは、市立第一高等女学校(市女)に通う娘のむら子さんを探していた。見つけたのは夕方6時前、元安川にかかる萬代橋付近の川岸だった。
「ここよ」と言ったので私は降りて行ったんです。そしたら女の子が、顔がはれていて 目は全くの一筋、頭の髪はほとんど無い。皮膚は剥げて全部たれさがっているのです。負うことができません。私の子で築山家へ養女にやっていたんです。「むら子ちゃん、いいね、お父さんがこられて…」と誰れかが言ったのが、今も私の耳に残っています。通りかかった女の人に帯をもらって、背中に負わせてもらい、住吉へ出たのです。住吉のたもとに人が一ぱい板の上に並べてありました。そのおり、一五、六歳の特攻隊員のような青年が江田島からきて、死体の収容作業をやっていました。キビキビした人でしたが、隊長の名を聞きもらしました。(『広島原爆戦災誌』)
負傷者は船で、トラックで、次々と日赤や宇品の船舶練習部の臨時野戦病院に送られ、さらには似島へと運ばれていった。