爆心地から南南東、約1.1kmのところに雑魚場(ざこば)町があった。今は国泰寺町に含まれる。中区役所や市役所の東側に当たる。8月6日は広島一中1年生を含め国民学校高等科、中学校、女学校計12校、2300人余りの生徒が建物疎開作業に当たっていた。
市内雑魚場町付近では、早朝から建物疎開作業がおこなわれていた。一年生一二〇人、二年生約二四〇人も出動してこれに参加、約六万坪といわれる防空用地を作る整地作業をしていた。生徒は一割ぐらい欠席していたようである。
七時五十分ごろ、出席者を調べて、一斉に作業に取りかかった。倒された家屋のあちこちに、生徒たちは一列にならんで、掛声をかげながら、瓦の手送りに励んだ。
白い短袖シャツに、白っぽい腕をむき出しにして、兵隊がロープで曳き倒した家屋の、あと片づけの作業に取りかかったところであった。
突如、パッと光った。(『広島原爆戦災誌』山中高等女学校)
山中高等女学校30名あまりの1年生の中で体験談を残しているのは、鎌田律子さんただ一人である。
県立広島第二高等女学校では坂本節子さんが火の海を脱出した。
ピカッと光ったと思ったが、その後の記憶はない。おそらく、爆風に吹き飛ばされて意識を失っていたのでしょう。
しばらくして起き上がってみますと、私の周囲には誰一人見えず、急に一人ぽっちの世界に置かれたような気持ちで突立っていました。「これはやられた。」と気付くや、先生に教わったように口を開け、両掌を耳に当てて、地に伏せました。一〇分ばかりはそうしていたでしょう。再び立上がってみますと、暗闇の中に真赤な火の手が上がっていました。炎は見るまに広がり、あたり一面火の海になったようでした。この明るさに、チラホラ人影が見え始めたので、近寄ってゆきましたが、その異様な姿には全く驚きました。垂れ下がった皮膚、水ぶくれした顔、はれあがった唇、何物かの化身としか思えませんでした。慣れぬ地理に、この天変地異、全く方角のわからぬまま、たださまようだけでしたが、そのうち先生が見つかりました。既に数人の生徒が、両脇にしがみついていましたが、先生もまた同じ被害をうけながら両手を広げ、ひなどりを抱きかかえるようにして立っておられました。私は自分の名前を告げて、先生にうなずいて頂いたものの、私にはすでに先生は生きている人のようには見えませんでした。ただ、生徒のために責任感と精神力で突立っていらっしゃったのではないかと思います。(『広島原爆戦災誌』県立広島第二高等女学校)
この学校の生徒の被爆の状況については、関千恵子さんが『広島第二県女二年西組ー原爆で死んだ級友たち』(ちくま文庫 1988)で詳しく述べている。