8月6日昼3時過ぎ、慈仙寺のあたりは余燼がくすぶり、寺は焼け落ちて焚火のオキのように真っ赤な塊になっていたという(『原爆爆心地』)。分教所の子どもたちは、そこでどのような最期をむかえたのだろうか。
一つだけ分教所の体験談を見つけた。『原爆体験記』(広島市原爆体験記刊行会 朝日新聞出版 1975)に「ようやく勉強がはじまった。勉強といっても赤白の旗をもって『信号』の練習であった」(重道昇 当時10歳)とある。慈仙寺の子どもたちは輪になって誰か大人の人と一緒にお遊戯をしていたのだろうか、それとも、先生の指導で同じく手旗信号の勉強をしていたのだろうか。
8時15分、閃光が走った。ほぼ同時に、寺は強烈な力で押しつぶされた。
『戸坂原爆の記録』(戸坂公民館)をウェブ(Hiroshima Speaks Out)で読むことができる。その中に肥田舜太郎さんの「一軍医の記録」がある。肥田さんは8月7日、今の基町アパートのあたりにあった第二陸軍病院の焼けあとにたどりついた。爆心地から約1km。
そこから向うは一目でそれとわかる病棟の焼け跡に鉄の寝台が乱れながらも整然と並んでいる。爆圧の強さを教えるのか、脚が全部、一せいに飴のように折れ曲っている。動かすのに骨の折れるあの重く頑丈な鉄の骨組を瞬間に真上からおしつぶすとは一体、どのような力だったのだろう。(中略)火を見る前に恐らく全員が即死してしまったのであろう。1つ1つの寝台の上に灰をかぶった傷病兵の骨が1体ずつ、まるで嘘のように並んで横たわっていた。
慈仙寺の子どもたちも、一瞬のうちに、何が起きたのかわからないまま、建物の下敷きになり即死したのではなかろうか。輪になったまま死体があったという。建物の内でなければ白骨になるのは難しいだろう。寺の境内には別に数体の焼け焦げた遺体が見つかっている。
産業奨励館(原爆ドーム)の北隣に家があった川本福一さんの17歳の娘郁江さんは、焼跡の瓦を掘り返すと骨がパウダーのようになって出てきたという(『中国新聞』1997.7.29)。
同じく産業奨励館の東側に家があった益本忠海さんは、家のあたりは一面灰だらけで、膝までつかるぐらいの灰の中を手探りで探した。
「朝の八時過ぎだったら、ちょうどみんなここで朝飯を食べていたんじゃないかなと思って、このあたりを掘ってみたんですよ。そうしたら、ちょうどちゃぶ台を囲むように丸くなって、五人の骨が見つかったんです」(『原爆投下・10秒の衝撃』)
慈仙寺の焼けあとも、割れた瓦が散乱し灰に埋もれていただろう。その奥底で、骨になった子どもたちはじっと待っていた。
林幸子の『ヒロシマの空』を読み返す。