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滋賀解放同盟お弁当の猫きのこのkairuです🐾
毎日暑いです。
こう暑いと発狂しそうになり、ふと、浮かんで来る小説があります。
アルベール・カミュの異邦人
アルジェリアのアルジェに暮らす主人公ムルソーの元に、母の死を知らせる電報が養老院から届く。
葬式のために養老院を訪れたムルソーは、涙を流すどころか、特に感情を示さなかった。
アルジェに戻ったムルソーは、海水浴場で会社の元タイピストであるマリイに再会する。その後、二人はコメディ映画を見て、親密な関係を持ち始める。
これはすべて、母の葬式の翌日に起こっている。
ムルソーは隣人のレエモンに協力して居座っていた情婦を追い出す。
そのことが理由で、レエモンは情婦の兄を含めたアラビア人の集団に付き纏われるようになる。
ある週末、レエモンはムルソーとマリイを友人のヴィラに招待する。
その帰りに、アラビア人が現れ、喧嘩が起こる。その時、ムルソーがレエモンの拳銃を預かる。
ムルソーは一人で海辺を散歩に出掛けると、先ほどのアラビア人の一人がいて、ムルソーに刀を向けた。
ムルソーは激しい暑さを感じ、太陽の光から逃れようと一歩前に進む。
そして拳銃でアラビア人を殺害した。
ムルソーは逮捕され、裁判にかけられることになった。
裁判では、母親が死んでからの普段と変わらない行動を問題視され、人間味のかけらもない冷酷な人間であると糾弾される。
裁判の最後では、殺人の動機を「太陽のせい」と述べた。
死刑を宣告されたムルソーは、懺悔を促す司祭を監獄から追い出し、死刑の際に人々から罵声を浴びせられることを人生最後の希望にする。
この小説を読んだのはもう半世紀も前のこと。
そして、読みながら腕が毛羽立つほどのギラギラ照りつける太陽を感じました。
実際、ムルソーは母親が亡くなって悲しかったのでしょうか?
アラビア人を殺害したかったのでしょうか?
当時は理解出来ませんでしたが、そこからさらに半世紀分生きた私の解釈ながら、なんだか今なら分かるような気がします。
以前にも書いたことがありますが、私は母親に良い人であるようにと幼い頃から教育を受け、人を嫌ったり、憎んだり、悪く思うと言う、人として当たり前の心をことごとく否定されて育ちました。
母は自分は父の悪口を言うのは良しとしながら、私のことは聖人君子のように育てたかったようです。
善人たるものは、の洗脳みたいなもので、その内自分の感情が分らなくなりました。
腹を立てると言う事は、まずは自分が理不尽な立場に立たされていると言う認知が必要です。
しかし、腹を立てないで済むように、自分が理不尽な扱いをされていることを認めたくはないので、感情の整理が出来ず、何に対して怒っているかすら理解出来なくなってしまいます。
自分の感情ではなく、人からどう見られるかを一番に考えて行動するようになりました。
現実を認めたくはないが故に、不自然な感情表現をするようになっていたと思います。
自分は良い人であり、こんなに無理して頑張っているんだから、当然他の人たちよりも心が綺麗であると思い込んでいました。
この考え方は自然と人との間に上下を作り、自分は徳を積んで人の上に立っているような錯覚を持つようになりますが、今にして思うと間違っていたと思います。
人は平ら。
どれだけ素の自分を出せるか出せないかの違いだけで、上も下もなくまっ平らだと今の私は思っています。
単にありのままの自分を偽って、自己評価を高く見積もる為に膜を張っていただけで、過去の自分は人とは違うと思いたいがために失敗を認められず、謝罪も出来ない卑怯者だったと思います。
当然、人なんだから欲もあるし、憎悪の感情もある。
自分が認められて報われる事が少ないと不満を持っていることに気付きました。
それで、私がやり始めたことは、まずは事実を客観的に見て、それを受け入れること。
その上で、なぜ自分が怒っているかをしっかりと冷静に分析することでした。
例をあげると、あの人に言われたことで私は傷付いている。
つまりその言葉は私が言って欲しくなかったことだ。
なぜ、あの人は私に向かってそんな言葉を言うのか。
言っても良い人間であると認知されている。
つまり、見下されているのだ。
だから、私は怒って良いし、それが改まらなければ嫌っても避けても良いのだ。
と言った分析です。
これのお陰で、当時の私と同じように、人からどう思われるかがメインで生きている人と言うのは区別がつくようになりました。
今は、しっかりと理屈立てて腹を立てられるようになりましたし、自分が腹を立てた理由を説明できるようになりました。
こどもの頃は何を言われても自分が腹を立てていることや、怒っていることを認められませんでした。
あのまま、感情の封印を続けていると他人から見たら異質な人に見えて、きっとまともな人間関係を築けていなかったと思えるのです。
繰り返しになりますが、感情に膜を張ったような感じ。
想像ですがムルソーと母親の関係はいびつで、抑圧していた母親が亡くなって悲しいのが当たり前のはずなのに悲しくない自分に戸惑っていたのかもしれません。
人を殺してしまって、罪悪感に苛まれなければならないはずなのに、罪悪感が全く襲って来ないのに恐れを持ったのかも知れません。
ムルソーは死刑の時に人々からの罵りを期待したとありますが、本当にそうだったのでしょうか。
罵倒されても平気な人の心を持たない極悪人であると言う立ち位置に納まって安心したかっただけなのかもしれません。
彼自身も自分のことが分らなくなっていたような気がします。
太陽のせいで眩しくて相手が見えず、殺される恐怖からピストルを撃ってしまっただけかもしれないのに、理解されない異質な者だと見られた結果、殺したくて殺したことにされて憎悪されてしまった。
彼は殺される側に感情移入出来なかっただけで、その背景を推し量る事が出来なかっただけではないでしょうか。
人は自分の理解出来ない感情に恐怖します。
私も父が亡くなった後、母を引き取って介護しましたが、両親が亡くなっても全く悲しみを感じませんでした。
いつかきっと悲しみが襲って来るかもしれないと待っていましたが、母が亡くなってもう15年以上になりますが、今だ何も感じません。
心の拠り所に一切なって貰っていなかったからではないかと思っています。
本当に家族を亡くした悲しみを知るのは、ハルさんを失った時かも知れませんが、耐えられそうにないので、出来れば私が先に逝って最後まで家族が亡くなる本当の悲しみを知らないで人生を終るのが願いです。
私は心を許した人には喜怒哀楽を素直に出せるようになりました。
だいたい、自分が本当は何を考えているか、なぜそう考えるのかが分るようになりました。
そのせいで、気を許せば表面を取り繕った人よりも分りやすい人間になり、受け付けることの出来る人間も、受け付けてくれる人間も格段に減りましたが、深く受け入れてくれる人と出会えました。
ムルソーは良い息子などではなくてムルソーで良かったのに。
ムルソーも自分を探す練習すれば良かったのに。
感情の整理がつかず、自分でも何を考えているか分らない人間になってしまったのでしょう。
暑い太陽と、自分を遠くからでも支配し抑圧していた母親の死で混乱して、人目を気にして演じていた気遣いが溶けてなくなり、何もかもが面倒くさくなったのかもしれません。
母の希望する自分である必要がなくなり、次の立ち位置を見付けられず、暑さと太陽で途方に暮れていた。
そこにたまたまアラビア人と言う死の恐怖と遭遇してしまった。
膜を破ればそこには人一倍純粋な、人として当たり前の優しさ、哀れみ、悲しみ、畏怖などの感情があったはずなのです。
母に愛されたかった無垢な幼いムルソーがいたはずです。
そう思うと、ムルソーが哀れでなりません。
▇今日のにゃんこ
出窓を塞がれて行き場をなくしたまんぷぅが
ティラさんから奪還して、極楽な顔をしてねんねしています![]()
可愛いねぇ~


