脚本家ではなくテレビ局の方がより大きな責めを負うべきという意見もこちらのように出ており、御尤も。原作者のいうように『原作尊重』をテレビ局(日本テレビ)が約束していたのであれば、違約になるので、批判も当然。約束がどの程度の密度のものかは不明だが(口約束かメモ書か契約書か:口約束でも契約は契約なのだが・・・)、原作者にとって脚本初稿がどれもこれも不本意だったから、書き直し要請が連発されたと推測でき、日本テレビの仕切りが悪そうとも推測できる。仕切りが悪いだけでなく、意図的に原作者の意向を軽視したのかもしれないとも憶測されうる。
それにしても「芦原妃名子さんの訃報に接し、哀悼の意を表するとともに、謹んでお悔やみ申し上げます。2023年10月期の日曜ドラマ『セクシー田中さん』につきまして日本テレビは映像化の提案に際し、原作代理人である小学館を通じて原作者である芦原さんのご意見をいただきながら脚本制作作業の話し合いを重ね、最終的に許諾をいただけた脚本を決定原稿とし、放送しております。本作品の制作にご尽力いただいた芦原さんには感謝しております」とコメントしているのだが、「には」って何? お前らの血は何色?
原作者からも声が次々と上がっており、こちらは分かりやすい。
脚本家対原作者の構図と同様で、テレビ局対原作者だとどちらが信用されるか?という話で、これはノータイムで後者になる。テレビドラマでの二次利用に際し、制約をつけない作家さんもいるだろうが、本件は制約アリが所与であった以上、二次利用者は制約を乗り越えることは許されない。当たり前の話なのだが、それを雑にこなしてしまうのがメディア人種であることを示す前例が余りにも多すぎる。
メディアが急に体質改善されるとも思えない。関わる人はその関りについて契約書を締結し、違約時には追い込みができるように準備することを私はお勧めします。そういう面倒なことをするとメディアで仕事がなくなることを懸念する人もいるのだろうが、自分の所見なり作品が別物に変形される、換骨奪胎されるのを目撃するよりは良いだろう、と思うのである。