最近、映画鑑賞頻度が上がっていて、このブログの建付けを「将棋、ラン」から「将棋、ラン、映画」にしてもいいかな、と思うほどである。昨日も109ライズに出かけてきた。予告編をみて「グリーンブック」がいい感じかな、と予想していたのだが、レビューの点数もよく(現時点でYahoo映画では4.53とボヘミアンラプソディ並み)、躊躇う理由はない。

 

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 時は1962年らしい。主人公は2名。一人はアフリカ系(劇中ではアフリカ系とはいわず、カラードという表現が多いようである)のピアニストで超絶技巧を持ちながら、アフリカ系はクラシックでは成功できないとしてポピュラー系で名を成していて、深い教養と威厳をまとっているが、どうやら同性愛者でもあり、家族とも別離していて、孤独に苛まされているようである。いかなる意味でもマイノリティか。もう一人はイタリア系の3世(?)の何でも屋さんだが、周囲からは事態を切り抜ける能力の持ち主として一目も二目も置かれているヘビースモーカー。大家族に囲まれていて、彼自身も差別を受けることもある身ながら、アフリカ系への偏見にすっぽり覆われている。ある意味、マジョリティかもしれない。そういう対比で私はこの映画を観ていた。以下ネタバレだらけのレビューです。

 

・ 南部を演奏する一行。演奏先でも当たり前の差別待遇。VIPとして招請しながら、トイレは庭の木の小屋、楽屋は物置、食事はレストランではさせない。ジャッキー・ロビンソンがのし上がっていく途中でのエピソードを思い出す。チームのバスがガソリンスタンドで給油をしている最中、彼はトイレを利用しようとすると店のオーナーに断られた。ロビンソンは即座に言い放つ。「だったら、給油を止めろ」 オーナーはトイレの利用を認めるしかなかった。ドン・シャーリーももっと早くから強気に出てもよかったのでは? フェアな待遇を契約条項に織り込むとか。

 

・ 背広店で試着を断られたエピソード。私がロンドンのジョンロブで靴を物色しようとして(1997年ごろのことだ)、全く店員に無視されたことを思い出す。それは人種差別ではなく、私が一見の客であり、ワイシャツネクタイは着用していても背広を着ていなかったからもしれないのだが。。。すごく暑い日ではあった。人間はしたことは忘れてもされたことは忘れない。ドン・シャーリーはどれほどの苦痛を積み重ねてきたことか。

 

・ もしかすると自分の名声が力量だけの評価ではなく、エスタブリッシュメントの「自分たちはカラードを評価することもできるのですよ」という度量の広さを見せかけたいという欲求に下支えされているかも、という疑惑にも苛まされていたことであろう。

 

・ ゆえに、最後のアフリカ系の人々のバーでの演奏に救われた。

 

・ 偏見まみれのトニーだが、一回の演奏でシャーリーの真価を見抜き、以後は支え続ける。粗野であり、教養もないが、人間の品格が何か考えさせる。(やばい。。。書いていて泣けてきたわ・・・この辺の機微は「見てくれ」というしかない)

 

・ シャーリーとトリオを形成する2人。彼ら自身もこの国ではマイノリティながら、アフリカ系でないため、それなりの席にもいける。シャーリーを尊敬しながら、それをあからさまにできない葛藤もあったのだろうか。

 

 ひとりでいっても、家族、友人といっても間違いなく定価以上の価値のある映画。

 

 9/10。