この度、9月30日付けで厚生労働省を退官することにいたしました。

2001年4月の入省以来、多くの皆様に大変お世話になりました。

 

厚生労働省の仕事や霞が関にも、これまで育てていただき、使い続けてもらった返しきれないほどの恩がありますが、私個人の生き方の問題として、自分のスタイルを貫いて、より自由なフィールドで自分を使いたいという気持ちがどうしても抑えきれなくなりました。

 

 

1. 官僚という仕事を選んだ理由

 

学生時代の私は、素の自分とギャップが最も少ない仕事を探しました。

素の自分というのは、ずっとみんなのことを考え続けているということでした。

物心ついた頃からガキ大将だった私は、よく友達を殴って夜お母さんと一緒に謝りに行ったりもしていましたが、一方でどういうわけだか、クラスで起こっている出来事は全部自分の問題だと思い込んでいました。

部活でもキャプテンをやったり、大学でも政治学を専攻しながら大人になり、周りの同級生がどうやったらよいポジションに行けるかと考える中、自分は「どうやったらみんながうまくいくか」を考えることが一番自然なことでした。

 

当時は、私の出身の慶應大学から国家公務員になる人は少なかったですが、24時間365日この社会のことを考えていることが許される国家公務員という仕事があることを知りました。

 

2. なぜ、厚労省を選んだか

 

ただ、どの省庁に入るかについては、特に原体験もなかったので悩みました。

人の幸せというものを考えたときに、その価値観は様々なので何をしたら人は幸せなのかということが、中々見つかりませんでした。

 

悩んだ末に私なりに出した答えは、以下のようなものです。

 

「命があって、安全で、健康で、生きていくための幾ばくかの収入がある、仕事がある」そういったことは誰もが必要な生活のベースである。

それがあって、初めて人はそれぞれの価値観に沿った幸せを追求していけるのだろう。

そうであるならば、この国で生まれ育ち、色々なものを抱えて生き、老いて旅立っていく人たちが、時代が変わっても、そうしたものからあぶれない社会を創り続けていきたい。そういう思いで厚生労働省の門をたたきました。

 

 

3. 素で居続けることができた18年半

 

そのように、素のままでいられる場所を求めて、国家公務員・厚労省を選んだものですから、これまで厚労省での活動を、あまり仕事だと思っておらず、また公務とプライベートの境もよくわからず、ただ好きなこと、いいことを、楽しくやってきたような18年半でした。

 

ただ、自分が好きなこと、いいことを楽しくやっていると、それだけで色んな人が一緒にやりたいと思ってくれたような気がします。

そして、そういうたくさんの人たちが、部署が変わっても、また自分が海外に行っても、ものすごく助けてくれました。

そして、NPO、企業、メディア、研究者など組織の外のつながりがどんどん増えていき、内部と同じように外部の仲間も増えていきました。

 

僕ほど、色々な人に助けてもらった官僚はいないのではないかと思います。それが、僕がこれまで持っていた一番の力でした。

そのおかげで、いつも仕事の意味に迷うことはありませんでしたし、答えが見つからない時は必ず日本で一番詳しい人に聞くこともできました。

 

僕でなければ、できなかったかもしれない思い出深い仕事もいくつもできました。

 

 

4. SNSでの発信について

 

私は、今から8年くらい前にブログやツイッターなどSNSでの発信を始めました。

それは、理想の法律(案)を作るためには、国会議員や役人や審議会の委員、関係団体の人など、政策に関わるプロの人たちと話しているだけでは、法律が変わっても社会が変わらないということを痛感したからです。

 

法律職として入省した自分は、これまでに6本の法律案を担当しましたが、最初の経験は私が3年目~4年目の2004年のマクロ経済スライドを導入した年金改正チームの末席です。

 

今でも、あの改正はよい改正だったと思っていますが、少なくとも衆議院の審議ではほとんど制度の議論がなされず、報道もされませんでした。話題になっていたのは、過去の無駄遣いと大臣などの国民年金未納問題でした。

 

結局、世の中の多くの人に制度の中身は届かなかったと思いますが、とにかく法律は国会で成立しました。

 

当時の私は、いい仕事ができたと思いました。また、初めて自分が携わった大きな仕事が形になってことで、ここで役人としてやっていけるという自信を初めてもった瞬間でもありました。

 

数年後、たまたま厚労省の発表資料を見たら、国民年金の納付率は下がっていました。

 

そうです。法律をつくるということは、簡単ではないけれどプロの世界で何とかできないことではありません。もっと難しいのは、この社会で普通に暮らしている人たちに、中身を理解してもらって、いいね!と言ってもらうことです。

 

それが、なければ法律が変わっても、なかなか社会が変わっていきません。

 

それなのに、どうして僕らは普通の人に分かりやすく伝えることをしないのだろう。

役所の説明はどうして分かりづらいのだろう。

NPOの友人たちを見ていると、その社会課題の重要性や事業の価値、効果などについて一生懸命伝えて、寄付や助成金を集めたりしています。

 

そうか、僕らは法律ができれば、強制的に税金や保険料を徴収できる仕組みの中で仕事をしているから、そこに甘えているのかもしれない。そう思いました。

 

普段僕が会わない人たち、つまり政策のプロでない人たちに、直接伝えてみよう。あるいは、みんながどんなことを思っているのか知るために直接対話をしてみよう。

 

そういう思いで、ブログやツイッターなどを始めました。

 

本業にとられる時間も多く、十分に発信できなかったかもしれませんが、僕の中ではここで何かを書いて伝えたり、ツイッターで役所に批判的な人も含めて色々な方と対話する時間は、本当に貴重なものでした。

こういうことを書くと、こういう反応が返ってくるのかと、目から鱗の日々でした。

ここで、学んだ感覚は確実に常に本業の中の判断でも活かしておりました。

 

これを読んでくださった方、SNS上でからんで下さった方、RTしてくださった方、いいね!してくださった方、皆さんに心から感謝いたします

 

ちなみに、最初はそんなことをやっている役人はほとんどいなかったので、ちょっと勇気が必要でしたが、実は一度もこれで怒られたことはありません。意外と僕らの世界は懐が深くて自由です。

 

 

5. 退官への思い

 

実は、少し前に退官の意思を職場に伝えた時に、ものすごくホッとして1日脱力しました。自分自身は、好きなことを楽しくやってきただけのつもりでしたが、思ったより思いものを背負ってきたことに気づきました。

 

それは、自分が厚労省の職員だとか、官僚だとかいうことを片時も忘れたことがなかったということです。

外部の集まりに参加したり、人と会う時など、相手の人にとっては「厚労省の人に初めて会った」ということも少なくありません。それはSNS上でも同じです。

そんな時、私のことを意外とフランクでいいやつと思ってくれるのか、イヤなやつと思われるのかで、その人の持つ厚労省のイメージができあがってしまう。

 

決して無理をしていたわけではありませんが、常にそういう意識を持ち続けていましたし、道ですれ違う人を見た時には「この人たちはみんな僕のお客さんなんだな」と思って生きてきました。この感覚を一時的に持たなかったのは、インドの日本大使館で外交官をやっていた3年間だけです。

 

そういう立場から降りることに心底ホッとしたのだと思います。

 

自分たちが尊敬されたいとは思いませんが、税金や保険料を払う人たちが、信頼できる人に預けていると思える社会の方が人は幸せですし、よりよい政策を創るだめには、そういう環境が大事と思っています。

 

 

6. 今後について

 

まずは、厚労省だとか官僚だとか、そういう殻を取り除いて、少し生まれ変わる時間が必要と思うので、しばらくゆっくり勉強をしたり、生活リズムを落ち着けたり、旅に出たりしようと思っています。

 

厚労省職員でも官僚でもない自分というものを感じたことがないので、どのような自分が出てくるのか、私自身もよく分からないところがあり、楽しみでもあります。

 

組織の枠がなくなった自由の中で、自分の活動の幅も広がりますし、もちろん肩書きが通用しないマイナスもあります。生活の保障もありません。

 

この社会に生活している人たち、将来の大人たち、外国から日本に来てくれる人たち、どうやったらみんなが幸せに暮らしていけるか、そういったことを色々なところに仲間を作りながら、今まで以上に自由な発想で追求していきたいと思います。

 

政策や霞が関に関する発信は、今後も続けていこうと思います。

このままの立場(管理職や幹部としての官僚)だと、自分を使いきれないと思ったので、外に活動の場を求めることにしましたが、政策をつくるという仕事に対しても厚労省や霞が関に対しても、みじんも愛情は変わりません。

 

これからもお付き合いいただければ幸いです。

どうぞよろしくお願いいたします。

 

                                          令和元年9月19日

                                          千正 康裕