前回、官僚がソーシャルメディアを使うことのメリットと、あまり使わない理由について書きました。

メリットがある一方で、心理的なハードルが高いのです。

僕自身は、自分がさらされることに抵抗感がかなり少ない方ですが、同じ仕事をしている仲間がソーシャルメディアに抵抗感を持つ気持ちはよくわかります。ソーシャルメディアに限らず、個人を出すことにとても抵抗感が高いのだろうと感じます。
「誰が見てるか分からないとこに色々個人を出すのはいやだ。」という声を聞きます。

もう一つ、組織との関係という問題があります。僕が、ソーシャルメディアを始める時に悩んだのはこっちの問題です。
自分の仕事も、自分が所属する役所も大好きなので、迷惑かかっちゃったらイヤだなあというのは、最後まで悩みました。
今日は、自分がオープンになることについて書きたいので、ここでは「迷惑になる内容を書かないことで対処しよう」という結論に至ったとだけ書いておきます。

さて、自分がさらされることの抵抗感の話ですが、僕らが一般の方と接する場面は、ほとんどが批判されるという場面なのです。

若い頃は、仕事中の結構な時間を苦情電話の対応にとられます。
陳情と言って、様々な団体の方の政策についての要望をお聞きする仕事もありますが、そこは糾弾されるような場となることも珍しくありません。
さらに、プライベートで飲みに行っても、隣のテーブルの酔客に「官僚はダメだ」みたいに絡まれることもあります。
若い頃から、そういう経験を重ねながら育っているので、みんな飲み屋でも「うちの役所」とは言わずに「うちの会社」と言ったりして、なるべく素性が知れないようにするのです。

そうなると、安心できる親しい人しかいない場以外では本音を言わなくなるように思います。
僕は、これは悪循環のような気がしていて、貝になればなるほど、偏った情報だけが一般の方に届くようになり、どんどん僕らが得たいの知れない存在になってしまうと思うのです。

僕は、そういう育ち方を社会人としてしているのに、なぜ自分をさらすことに抵抗感がなかったのでしょう。

それは、批判する人は、自分達に関心を持ってくれてる人だから、ちゃんと話せば必ずわかってくれると思うからです。

年金を担当していた一年生の頃、60代前半で、まだ働いていた父はよく在職老齢年金について、僕に家で苦情を言っておりました。
在職老齢年金とは、働いて給料をもらっている場合は、受けとる年金額が減らされる仕組みのことです。
「なんで、家でまで年金の苦情を聞かなきゃいけないんだよ。」と反発したものですが、ある日のこと。

朝から、出勤前に父からこの苦情を受けてから出勤しました。

始業してからほどなく、父が言うのと全く同じ内容の苦情の電話がかかってきました。

父と同じような60代前半の働いている方でした。

2時間近く話していたと思いますが、途中でこんなやりとりがありました。

「実は、私の父もあなたと同じような境遇で、いつも家で文句を言われているんです。」

「そうなんですか。それで、あなたはお父さんになんて答えるんですか?」

「お金の問題はあるだろうけど、働きたくても働けない人がいる中で、求められてこの年でも働けるのはありがたいじゃないか。僕より収入多いんだし、そんなこと言わないでくれよ。みたいなことを言っています。」

「ほう!それでお父さんはなんと言ってましたか?」

「いやあ。完全には納得していないんでしょうけど、息子の僕が言うことなのである程度仕方ないかみたいな感じかもしれません。」


そんなやりとりの後、苦情電話をかけてきたその方は言いました。

「私は、今日文句を言ってやろうと思って電話をかけたのですが、あなたの話を聞いてそういう気持ちがなくなりました。ありがとうございました。」

そう言って電話を切られました。


その時、僕は「なんでこの人は、『ありがとう』と言って電話を切ったんだろう。」と、よく分かりませんでしたが、いつも引っかかっていました。

しばらくして気づきました。

苦情電話の方は「自分たちの境遇や気持ちを国の人間は分かっているのか。」という気持ちだったのではないでしょうか。

思ったとおりにならなくても、分かってくれてはいるというだけで、人の気持ちはずいぶん違うんじゃないかなと。


こちらが、制度について理解を得たかったら、まず相手の境遇や気持ちを理解しないと始まらないのではないかと思いました。

それ以来、苦情電話がそんなにイヤではなくなりました。

もちろん、たくさん作業を抱えている中で時間をとられるのでちょっと困るのは困るのですが、一般の方と直接話せるチャンスなんだよなというも気持ちもありました。


これは、ほんの一例ですが、いわれのないような批判もたくさん受ける一方で、こんな経験もいくつもあります。

だから、批判する方も自分に何かを求めているし、分かってほしいという気持ちがあるのではないかと思うのです。

全く、関心を持ってくれない人とは重なるチャンスが少ないかもしれませんが、一生懸命話してくれる人とは、一生懸命話したらきっとわかり合えるだろうと思うのです。


一般の人たちや批判する人たちに対しても、そういう信頼感が僕にはあります。

それが、僕がこういう場所でも話し続ける理由なのだと思います。





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