宝治合戦以後、三浦氏は鎌倉の一御家人としての地位でしかなかったが、南北朝時代になると三浦氏は扇谷上杉勢として活躍する。三浦時高の代には大森氏・曾我氏らとともに扇谷上杉氏の重臣に取り立てられ、三浦郡だけでなく鎌倉郡へと領地も拡大していた。
ただ、三浦時高には男子がなかった為、扇谷・上杉持朝の次男・上杉高救を養子にもらう。その後、1462年に三浦時高は家督を三浦高救に譲り、三浦高救の子・三浦義同を更に養子として迎え、上杉氏との絆をより強固なものにした。
しかし1486年に扇谷上杉家を継いでいた三浦高救の弟・上杉定正が重臣・太田道灌を謀殺して上杉家に動揺が広がると、三浦高救は扇谷上杉家の当主になろうと画策した。その際、三浦氏の家督は三浦義同に譲ったとされる。
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