オウム事件とマインドコントロール | 世日クラブじょーほー局

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 さる3月20日は、オウム真理教による地下鉄サリン事件からちょうど25年目だった。死者13名、負傷者6300名。平時の首都のど真ん中で引き起こされた化学兵器による前代未聞の無差別テロ。それだけに止まらない。オウムはその前年(94年)に死者8名、負傷者140名を出す松本サリン事件、さらにその5年前(89年)には坂本弁護士一家殺害事件を起こした。そしてあろうことか核武装まで構想し、自らハルマゲドンを起こそうと画策していた。宗教とは名ばかりの正真正銘の狂信テロ集団だった。

 

 読売新聞3月24日付、社会面連載「残響 地下鉄サリン25年 (下)」は、今現在3つの団体に分裂したオウムの後継団体の信者数の合計が1650名、かつその総資産額はこの20年で20倍になったと記す。そして昨年は計100名が入信し、その6割が20代だったとした上で、後継団体の主流派であるアレフが、ヨガ教室を窓口として勧誘する様子を伝えている。勧誘されたこの女性が、内容はよくわからなかったにも拘わらずセミナーに参加した理由は「仕事に疲れ、自信を失っていた自分をいつも肯定してくれたから」だったと、人の心の隙間に巧妙に入り込む手口を明かす。

 

 記事は最後に、閉塞感の漂う今の社会で生きづらく感じる若者の状況は四半世紀たっても変わらないとして元オウム死刑囚らの心理鑑定に携わった西田公昭・立正大学教授の「過去の事件を踏まえ、どんなに優れた他人に見えても依存せず、幅広く情報を集め、自分の頭で考えて判断する」必要性の指摘を紹介している。西田の指摘は確かに正しい。ただこの「マインドコントロール研究の専門家」なる超マニアックな、はっきり言って人を幸福に導く度量も経験も欠く象牙の塔のタコツボ理論家には言われたくないが。それはともかく、宗教の門をたたくことはある程度そうなることを意味するし、宗教でなくてもメンターという存在を持つ社会の指導的立場の人間は数多く存在する。ちょっと古いが安岡正篤や中村天風など歴代首相の指南役を務めた思想家もいた。

 

 男女の恋愛、家庭における子女教育、一般企業でも、スポーツチームでも同じような心理状態や環境が作られる場面もある。何も宗教に限ったことではないし、線引きは難しく十把一絡げにできるものではない。要は自分の中にどれだけ多くの選択肢を持てるか。バランス感覚を養い、人生におけるその時々の局面で自ら決断し得る自己形成に努めるべきだ。宗教サイドも不易なるものと流行なるものの分別を図りつつ、コンプライアンスは無論のこと、独善を排し、建設的な批判はキチンと受け入れ、自浄能力をもつ風通しのよい組織を目指さなければならない。

 

 ただ一方でこういう側面も知るべきだろう。今から5年前にテレビ朝日で、「オウム20年目の真実~暴走の原点と幻の核武装計画」という特番が放送された。オウム取材に執念を燃やすテレ朝記者が独自取材によって、元幹部へのインタビューや海外にも足を運び、教団の核武装計画の実態に迫った。その中でオウム後継団体の「光の輪」の代表上祐史浩(95年に偽証罪で逮捕、懲役3年の実刑判決)に独占インタビューしたが、一連のオウム事件について、食い止めることができなかったかという記者の質問に彼は、「当時の自分では絶対にムリ。あの時の無知な自分、若い自分、他の宗教を知らない自分、選択肢が実質上ないほどムリ」と答えている。公安調査庁によれば、光の輪は今でも教祖麻原の影響下にあるとしているので、上祐のこの言葉の真意は測りかねるが、率直な気持ちではあろう。上祐という早稲田大学院の理工学研究科修士課程を出た秀才かつ教団の最高幹部にして、一つの思想に染まり切ったあと、自ら方向転換することの難しさを示してあまりある。

 

 あと、最近目に留まったのが、月刊「Will4月号」に掲載された馬渕睦夫(元駐ウクライナ大使)と篠原常一郎(元日本共産党国会議員秘書)による対談「コロナ爆発的感染は共産党独裁のせい」の中での馬渕氏の以下の言及。日本における共産党の特異性はむろんだが、あまた存在する宗教団体についても多くの示唆を与えていて、宗教人も耳を傾けるべきだろう。

 

 「本来の共産党員の考え方は、日本人の大多数の生き方とは合わないという裏付けでもあります。篠原さんによれば、新聞『赤旗』の購読者は百万人弱だということですが、これはおおよそ日本人のキリスト教徒の半数にあたる。ということはキリスト教徒も違った意味で同じ問題を抱えていて、やはり日本の国体を受け入れきれず、溶け込めきれずにいる。他宗教も同様、創価学会も熱心な学会員は神社に行けませんから、小学校の伊勢神宮への遠足などに学会員の子供は参加しないといったことが現に起こっています。はっきり言って、これは宗教の持つ負の側面でしょう

 

 さて、かつて自民党はオウム事件と創価学会の後ろ盾を得た新進党によって下野した経緯もあって、宗教規制法案といえる「宗教基本法」(1996)制定を画策した。しかしあまりに問題が多く、お蔵入りとなった。一般に日本人は宗教に寛容と言われるが、島国で同一民族のゆえに欧州や米国などのように信教の自由を求めて戦った歴史もなく、戦後GHQによって与えられた自由にどっぷりと浸かったまま、「ふしだらで、無原則な」(評論家・高瀬広居インタビュー『宗教と政治の接点』世界日報社)宗教観しか持ち合わせていない。その最たる結果がこの宗教基本法案の登場だったといえる。オウム事件の教訓とともに、コロナ禍で世界中が大変なこの時にこそ、今一度、宗教とは何か、西田幾多郎の「善の研究」の一節とともに深く思索されたい。

 

 「世には往々何故に宗教が必要であるかなど尋ねる人がある。しかしかくの如き問は何故に生きる必要があるかというと同一である。宗教は己の生命を離れて存するのではない、その要求は生命其者の要求である。かかる問を発するのは自己の生涯の真面目ならざるを示すものである。真摯に考え真摯に生きんと欲する者は必ず熱烈なる宗教的要求を感ぜずにはいられないのである

 

宗教と政治の接点―宗教規制法案の衝撃