「海の正倉院 沖ノ島 よみがえる建国の神々」電子復刻版で登場 | 世日クラブじょーほー局

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 国連教育科学文化機関(ユネスコ)世界遺産委員会は、7月9日、日本が推薦していた「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」(福岡県)の世界文化遺産登録を決定しました。5月のユネスコ諮問機関の国際記念物遺跡会議(イコモス)による沖ノ島(宗像大社沖津宮)と三つの岩礁のみを登録するのが適当との勧告を覆し、全8資産の一括登録となりました。これを記念して、平成5年(1993)9月に世界日報社から刊行された武藤正行著「海の正倉院 沖ノ島 よみがえる建国の神々」を電子版で復刊いたしました。以下のURLからご購入いただけます。販売価格1200円(税別)、閲覧には専用ビューワ(無料)が必要です。

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http://book.vpoint.jp/products/list.php?category_id=13

 

<目次>
まえがき
第一部 海の正倉院 沖ノ島
       ――祭祀遺跡発見のドキュメント――
 
   一、はじめに
       建国神話は「虚構(フィクション)」なのか?
   二、日本のシュリーマンとなって
       津田左右吉学説への疑問
       敗戦――「日本的なもの」の崩壊
       理解者はパリから来た紅毛碧眼のエトランゼ
   三、大和朝廷の関与した沖ノ島祭祀
       玄界灘の島々を調査
       『古事記』『日本書記』に登場する宗像の三女神
       韓国金海へ続く「海のシルクロード」
       「天孫を助け奉りて」の意味すること
   四、ついに実現した沖ノ島調査
       冬の玄海を渡り、単身沖ノ島へ
       反骨の企業家、出光佐三氏との出会い
       禁忌(タブー)破りで覚悟の祈り
   五、「戦後、最高最大」の発見!
       竜宮城さながらの神話の島
       おびただしい祭祀の遺物
       純金の指輪を日本で初めて発掘
       「三種の神器」による祭祀――既に四世紀に存在
   六、神話はフィクションではなかった
       神話の背景に歴史的体験あり
       金銀の島、国宝の島、民族復興の宝島
   七、韓半島から陸のシルクロードへ
       (1)黄金製指輪 (2)唐の三彩
       (3)切子装飾瑠璃碗 (4)金銅製心葉形杏葉

第二部 玄界灘は日韓を結ぶ「紐帯の海」
       ――志登ドルメン遺跡調査によせて――
   一、「玄界灘文化圏」と大陸文明
       九州に関係する三つの文化圏
       海を越えて来る衝撃
   二、日韓両民族の類似点(人類学の視点)
       背丈の高い半島からの渡来人
       指紋、血液型、蒙古斑の類似性
   三、弥生式文化の形成と日本流入(民俗学の視点)
       北韓三八度線以南は「注連縄(しめなわ)文化圏」
       北方ツングース系文化と水稲文化の融合
   四、「原始日本語」の成立(言語学の視点)
       日本にあった母系制の時代
       日本語には南方系言語の要素が強い
       日本語ウヂ(氏)の語源を探る
       政治組織力にまさる北方ツングース系民族
       日本語と韓国語の系統的関係
   五、古代ドルメン文化の時代(考古学の視点)
       ヨーロッパとアジアにまたがる巨石文化
       ドルメンの分布と構造
       韓国と北部九州に共通する碁盤式支石墓
       志登の支石墓群を調査して
       玄界灘を自由に往来していた倭人たち

第三部 楽浪文化は流れて
       ――日本古代国家成立の文化的背景――
   一、楽浪――半島文化の先進地帯
   二、「漢委奴国王」の金印
       日本最古の金石文資料   
       金印偽物説の解消
       海上交通を支配した海人部族・阿曇氏
       志賀島に金印が埋蔵された理由
   三、楽浪文化と古代日本I
       トインビーによる日本文明の位置づけ
       楽浪出土の豪華な遺物群
       悲運の太子、菟道稚郎子(うぢのわきいらつこ)と人物画像鏡
       華麗な装飾壁画のある王塚古墳と珍敷塚古墳
   四、楽浪文化と古代日本Ⅱ
       吉川幸次郎氏と柿本人麿「月の船」
       楽浪文化を受容した縄文以来の国土と人間

結語 日本よ何処へ行く!

 

 

本書まえがき
九州大学名誉教授 文学博士 田村圓澄

 明治十四年(一八八一)刊行の『小学唱歌集』に発表された「蛍の光」は、「筑紫のきわみ、みちのおく」と歌っている。「九州の果て」「奥州の北端」の意味であるが、「中央」である東京の銀座にはガス灯が点り、また鉄道が走っていたが、九州や奥州は「文明開化」の枠の外にあると見られていた。しかし日本資本主義発達の原動力となる八幡製鉄所、そして石炭の供給地である筑豊は九州にあった。日本近代化の重要なエネルギーが、長く「筑紫のきわみ」に求められていたことの歴史的評価がなされていないまま、「蛍の光」は歌い続けられていた。
 

 目を、倭と呼ばれた古代の日本に向けるならば、古代中国の歴史書に初めて倭の「国」の名が記されたのは、『後漢書』の「奴国」であった。建武中元二年(五七)に、倭の奴(な)国の使者が洛陽に赴いて奉貢朝賀し、光武帝から印綬を賜った記事である。江戸時代中期の天明四年(一七八四)に志賀島(福岡市東区)から発見された金印は、奴国王が後漢の光武帝から授けられたものであり、「漢委奴国王」の五文字が刻まれている。いま福岡市博物館に蔵されているが、古代日本の黎明を語る、国際的にも貴重な遺品である。 三世紀の『魏志』東夷伝倭人条、すなわち「魏志倭人伝」において、女王卑弥呼の支配下に位置づけられた奴国の姿がうかがわれるが、奴国は那珂川の流域にあったと考えられ、須玖(すぐ)・岡本(福岡県春日市)は奴国王の居住地であった。ともあれ、中国本土や「韓国」と地理的に近い北部九州が、倭の中心の一つであり、古代中国王朝によってこの事実が認められていた。
 

 六世紀の筑紫君磐井は、筑紫・火(肥)・豊の諸国、すなわち九州の北半分を支配し、ヤマト政権軍と一年半に及ぶ抗戦を続けた。八世紀の藤原広嗣が大宰小弐の職権によって九州一円から兵を集め、聖武政府に対する反乱を起こしたが、抵抗は二ヵ月で終わっている。筑紫君磐井は新羅の法興王と同盟を結び、そして磐井の領有支配地域に住む新羅系・加耶系の渡来人が、磐井を支援した。
 

 渡来系の人びとが住む北部九州には、渡来系の神も鎮座していた。香春(かわら)神社(福岡県田川郡香春町)の辛国息長大姫大目命(からくにおきながおおひめおおまのみこと)は、『豊前国風土記』(逸文)によれば、「昔者(むかし)、新羅の国の神、自ら度(わた)り到来(きた)」りし神であった。宇佐八幡は、『宇佐託宣集』によれば、もとは「辛国」の神である。「辛国」は「韓国」であり、朝鮮半島南部にあった馬韓(百済)、弁韓(加耶)、辰韓(新羅)の三韓を指していた。
 

 いっぽう『古事記』と『日本書紀』に記された九州の神として、阿曇連(あづみのむらじ)等が祭る綿津見(わたつみ)三神(福岡市東区志賀島)と胸肩君(むなかたのきみ)等が祭る胸形(宗像)三神があり、このほかに住吉三神(大阪市住吉区、福岡市博多区住吉)がある。
 

 右の三柱の神は、いずれも「海の神」である。しかし『古事記』と『日本書記』が成立した八世紀の日本において、海神は綿津見・住吉・宗像の三神だけであったとすることはできない。漁撈や海上輸送にたずさわる人びとが住む日本の各地に、海神が祭られていたと考えられる。海神は、海上の安穏、豊漁などについて加護を与える神であった。
 綿津見・住吉・宗像の三海神について注意されるのは、第一に、いずれも古代の筑紫、すなわち福岡県に鎮座していることである。三神はヤマト政権に関連をもつと同時に、朝鮮半島また中国本土との海上交通にかかわっていた氏族の守護神であった、と見るべきであろう。第二に、三神はそれぞれの海上ルートを支配していたと考えられることである。つまり太平洋や大西洋を含む海一般の神ではなく、独自の「海上の道」を確保する豪族の守護神であった。このことは、筑紫の基地から朝鮮半島諸国また中国本土に出航し、またここに帰着する船と乗組員を管理・統率する豪族として、阿曇・津守・宗像の三氏がいたことを語っている。
 

 筑紫で奉祀されている綿津見・住吉・宗像の三神の出現、また鎮座の場所などについて比較すると、注目すべき差異のあることに気付くであろう。
 

 死んだ妻のイザナミの姿を見たイザナギは、驚いて黄泉国(よみのくに)から逃げ出し、筑紫の日向(ひむか)の橘小門(たちばなのをと)の阿波岐原(あはきはら)で禊(みそぎ)をしたという。身についた死の穢れを祓い清めるためであったが、このとき水の中から現れたのが、綿津見三神であり、住吉三神であった。いずれも男神である。
 

 いっぽう粗暴・無道の故に、両親のイザナギ・イザナミの二神から忌避された須佐之男命(すさのをのみこと)は、海の彼方の根国(ねのくに)に行くことを決意し、姉の天照大神に暇乞いをするため高天原を訪れるが、弟の須佐之男命には我が国を奪う邪心ありと推断した天照大神に対し、邪心のないことを証明するため、両神は誓約(うけい)をした。その結果、須佐之男命が吐く息の中からアメノオシホミミなどの五男神が、いっぽう天照大神が吐く息の中から、田心姫(たごりひめ)・湍津姫(たぎつひめ)・市杵嶋姫(いちきしまひめ)の三女神が現れ、須佐之男命の善心が証明されたが、この三女神が宗像三神である。
 

 出現の場所についていえば、綿津見三神と住吉三神は、地上の日向国であるのに対し、宗像三神は高天原であった。しかも宗像三神は天照大神から生まれている。天照大神は宗像三神に対し、「海北道中」に降り、「天孫」を助けると共に、また「天孫」によって祭られるよう命じた。「天孫」とは歴代の天皇を指すであろう。
 

 筑紫に鎮座する宗像神と、ヤマト朝廷との並々ならぬ関係がうかがわれる。
 

 宗像大社の辺津宮(宗像郡玄海町田島)とそれより一二キロ離れた海上の中津宮(同大島村)、辺津宮より五七キロ離れた沖ノ島の三処をつらねる海上の道が「海北道中」である。沖ノ島には沖津宮がある。綿津見三神・住吉三神の場合、境内に三社殿が並び、それぞれに三神が奉祭されているのに対し、宗像三神は海辺と、海上の二つの島に展開した形で鎮座している。
 

 宗像沖ノ島の本格的な学術調査は、昭和二十九年(一九五四)に始まり、昭和四十六年(一九七一)までの十八年間に延べ一〇回行われた。その結果、沖ノ島に四世紀後半から九世紀までの祭祀遺跡二十二ヵ処のあることが確認され、夥しい遺物が発見出土した。絶海の孤島が、「海の正倉院」であることが明らかとなったが、昭和二十九年の第一次の沖ノ島学術調査を企画し、財政面の調達、調査団の組織などに重要な役割を果たしたのが、本書の著者の武藤正行氏である。
 

 宗像沖ノ島の祭祀遺跡調査の全容の報告を第一部とし、韓国と日本を結ぶ「玄界灘文化圏」の構想を第二部とする本書は、四十年前の宗像沖ノ島の発掘調査時の興奮に私どもを誘うと共に、日韓両民族を結ぶ原点について新しい智見を示している。
 

 恰好の時期に、恰好の著者によって完成される本書の上梓を悦ぶものである。
                               (平成五年六月記)

著者略歴
武藤正行(むとうまさゆき)
明治43年、福岡県生まれ。昭和6年、九州帝国大学文学部国史科卒業。戦後、福岡県教育委員会を経て、昭和37年東和大学講師に。同47年、東和大学教授、純真女子短期大学教授、同53年から国士館大学客員教授となる。著書には『日本歴史に流れるもの』『宗像神社と宗像文化』『新しい日本的思惟』など。専攻は日本思想史。