寺脇研とコンビニのエロ本販売 | 世日クラブじょーほー局

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 元文科省審議官である寺脇研は、いわゆる「ゆとり教育」の導入者。その彼が、少し古いが、週刊文春1月26日号のワイド特集で、「ゆとり教育から日活ロマンポルノへ 寺脇研”64歳の春”」というタイトルでフィーチャーされている。その中で寺脇は、日活ロマンポルノに出会ったのは、大学入学の頃だとし、当時、女性経験がなかった彼は、一体どんなものか胸ときめかせたという。

 
 ま、ま、ここまではありがちとしよう。だが、「文部省に入省してからも、ロマンポルノの新作が出ると足を運んだ」って言うに及んでは、聞き捨てなるまい。一体どういう動機で、こともあろうに”国家百年の大計”たる教育行政に針路を求めたか。百歩譲って、たとえそういう過去があったとしても、今OBとして、公の場で言うことなのか。彼は好きが高じて、文科省からの退職金千二百万円をつぎ込んで、「ロマンポルノへのオマージュとも言える作品(2本ほど)を制作している」そうな。こうなればもう勝手にどうぞと言うほかないが、わざわざメディアでカミングアウトすることなのか。
 
 全共闘のバイブルと言われたフランクフルト学派のマルクーゼは、「かつて社会の崩壊は書物や言論を足がかりになされたが、セックスとドラッグがより強力な武器と考えた」。その著書である「『エロス的文明』の中で彼は『快楽原理』を全面的に認めよと提唱した。文化的規範はすべて拒絶せよ、そうすれば『多種多様な邪悪』の存在する世界が創出できると」。彼は、「戦争よりセックスを」のスローガンを提唱し、「すっかりマルクーゼ思想にはまった60年代の学生たちはヴェトナム戦争擁護派を黙らせ、ヴェトコンの旗を振る過激派を歓迎した」(パトリック・ブキャナン著「病むアメリカ、滅びゆく西洋」)。日活ロマンポルノは、マルクーゼ理論の実践だったろう。寺脇はその申し子で、教育の場に革命を持ち込もうとしたといえる。
 
 さて、児童ポルノの製作も単純所持も犯罪である。当然だ。だが、コンビニで販売する過激な表紙のエロ本を子供の目に晒すのはスルーか。最近、近所のコンビニ(ファミリーマートとスリーエフ) でまじまじとその風景を見て、暗澹たる思いにさせられた。思春期の少年少女にとって、それは酒やたばこ以上の、あるいは、いじめや虐待以上の害毒と当方は考える。テレビニュースに、ときたま映し出される異常性愛者や性犯罪者がそうなったきっかけは、成長期にその目に焼き付いた強烈なポルノ画像ではなかったなら説明してくれ。誰しも成長期に”性”に悩む。だが、親をはじめ、導き手としての周りの大人の支えによって、本来願わない堕落の道を回避できる。そして、自分が結婚してはじめてわかる…青春時代の貴さや親や周囲の心ある大人の助言やサポートの有難さが。
 
 コンビニオーナーとしては、収益構造上、涙をのんで青少年には犠牲になってもらうとでも? あるいはそんなのが気になるのだったら、子供は近寄らせなくていいとか? たっぷりその言い訳を聞かせてもらいたいものだ。政府は、2020年東京オリンピックまでに、4000万の外国人訪日客を目標にしている。競技会場や築地の移設の話題だけが毎日かまびすしいが、この問題は平気の平左か。外国にはこのような無節操な光景はないという。当たり前だが…。今現在でも恥ずべき状況が、今後オリンピックを迎えるにあたり、いよいよ世界中の衆目に晒される。どんなに言い繕ってもこの恥部だけは、北朝鮮やISにさえ軽蔑されるだろう。それはさておくとしても、まず恥を知れよ、そしてもっと未来を担う子供のことを優先的に考えよと言いたい。
 
 寺脇は文春の記事の最後にこう述べる。「最近『君の名は。』のような性的表現のまったくない作品がゆとり世代には受けていますが、彼らがもう少し男女の機微を知るようになったら、人生を豊かにする為にも是非ロマンポルノも見てほしいですね」と。 ゆとらせて…、堕落させ…て、お前、悪魔か。そうじゃねぇーよ。”性は聖なり”=”性の神秘性”を我知らず誰しも感じているではないか。今なお、結婚までは身ぎれいにと考える女性は多いし、男は愚劣な性情報に曝されて、その感性が萎縮してしまっているんだよ。ハイライトのその行為こそ、新しい生命誕生の共同作業ではないか。そこになぜ甘美な快感が伴うのか。あるいはなぜ官能遺伝なる恐ろしい現象が存在するか。イエスは、「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのである」(マタイ伝)とまでのたまった。”性”は、神の創造の相似体験なのだとは考えないのか。
 
 誰しも結婚には憧れる。そしていざ結婚式の段となれば、世界中どこでも各自の信仰に基づき、あるいは信仰がなくても、この時ばかりは神前式やキリスト教式などとして、厳かで霊験あらたかな挙式を執り行うではないか。そして夫婦となって家庭を持てば、守操義務を負い、なお子をもうければ、親として子育ての責任を負うのだ。事実婚で責任果たせるか!? 堅固なる家庭こそ、人が人生を通じて求めてやまない幸福の原点であり、終着点である。 ”おひとりさまですが、何か?”なんて、せいぜいほざいとけ。行為だけ切り取って快感だけ得たいなら、猿と変わらない。 
 
 ”小人閑居して、不善をなす” という。いたずらに成長期の子供に「ゆとり」を与え、欲望肥大化のままに堕落への道を助長するは、暴力なき革命である。